ドストエフスキー、それから夢

批評空間 (第2期第22号)

批評空間 (第2期第22号)

Gilles Deleuze 「創造行為とは何か」(鈴木啓二訳)『批評空間』II-22、1999、pp.91-104


この中で、ドゥルーズは(黒澤明との関係で)ドストエフスキーについて語っている;


ドストエフスキーの登場人物たちにおいては、実にしばしばかなり奇妙なことがらが起こる。そしてそれはわずかな細部に関わることでもありえます。一般的に言って彼らはとてもせわしなくしています。ある登場人物は急いである場所から立ち去り、通りに降りて行ってこう言います。「私の愛する妻タニアが私に助けを求めている。私は走っていく。もしも私がいなかったら、彼女は死んでしまうだろう」。彼は階段を降り、そして一人の友人と出会う。あるいは轢死した犬に出くわす。そして彼は忘れる。彼はタニアが自分のことを待っていて、今にも死にそうな状態であることを完全に忘れる。彼は話を始め、別の友人とすれ違い、その友人の家にお茶を飲みに行き、そして突然、再び彼は言う。「タニアが私を待っている。行かなくてはならない」。これはどういうことなのでしょうか。ドストエフスキーにおいては、登場人物たちは、絶えず切迫した状況に身を置いています。そして生か死かというこの切迫した状況に置かれながら、同時に彼らは、更にいっそう切迫した問題が存在していることも知っているのです。がそれがなんであるのかが彼らにはわからない。そのために彼らは立ち止まるのです。それはあたかも、最悪の緊急の事態に身を置きながら(「火が出た。立ち去らなくてはならない」)こうもまた呟いているかのごとしです。「いやもっと緊急のことがらが何かある。それが何だかわかるまではこの場を動かないでいよう」。それが『白痴』です。それが『白痴』を端的に表現した言葉です。「おわかりと思いますが、もっと深刻な問題が存在します。どんな問題だか私にはよくわかりません。がどうか私にはお構いなく。全てが燃えてもかまいません。より緊急な問題を見つけ出さなくてはならないのです」。このことを黒澤は、ドストエフスキーから学んだのではなかった。黒澤の登場人物たちもまた、皆このような人々なのです。(p.96)
これを読んで、唐突なようだが、夢の経験というのを思い出した。勿論、夢の経験を現在進行形的に記述できるわけではなく、夢の経験と言われているのは、覚醒した後における想起でしかないのだが。夢が断片的で目まぐるしいものとして経験されるのは、夢の中の私が〈夢的な現在〉それぞれにおいて(上で言及されるドストエフスキーの登場人物のように)自分がしていることの動機を忘れてしまうからだろう。先日(このドゥルーズの一節を読んだ後に)見た夢――私は自転車であちこちを(それがどこなのかは忘れてしまったが)走り回っていた。ある場所(これは私の実家の裏にある緩い坂道だ)に来たとき、子どもを連れた私の友人(女性)と会った。彼女は私の中学時代の同級生の女性と話していた。現実世界において、この私の友人は最近出産したばかりである。このとき、私は自分が何の目的で(何処に行こうとして)自転車で走り回っているのか、忘れてしまった。また、この中学の同級生のことは30年くらい思い出したことはなかった。しかし、(本当かどうかはわからないが)夢の中では実名がわかっていた。これはどうしたことかと夢の中で反省モードに入った瞬間に目が醒めてしまったのだ。