教科書(谷川俊太郎)

谷川俊太郎斎藤次郎佐藤学『こんな教科書あり? 国語と社会科の教科書を読む』岩波書店、1997

谷川俊太郎曰く、


ぼくの第一印象をいちばん端的にいうと、国語、社会科を問わずですが、こういう教科書は本じゃないという気がしたんです。なぜ本ではないかというと、作者がぜんぜん見えてこないということです。本というのは、それが単数であれ、複数であれ、作者の考えとか思想がなんかの形で伝わらなきゃいけない。ぼく自身は、教科書も本であるべきだと思っているんです。そこにいちばん基本的な問題があるといえるような気がします。(p.3)
また、教育学者の佐藤学氏;

欧米の教科書を見ると個人の著作です。だれだれの教科書となっている。日本も、考えてみると国定教科書までは個人ですよね。個人が編集方針をもって、ある色合いを提出した教科書が、戦後、どうして生まれなかったのか。これは検定制度だけの問題では、たぶんないんだと思うんです。教育というものの考え方、知識というものの考え方、そういうものに深くかかわっている気がして、その問題の深刻さをあらためて感じたのが一点です。
もう一つは、こんな小さな冊子の中に詰め込められるだけ内容を詰め込んでいる。しかも、たとえば国語の教科書と社会科の教科書の中に脈絡がない。こういうことってどういうものの考え方からなっているんだろう。つまり教科書の中に入るということは、完全に閉じた世界の中に教師も子どもの一緒に入ってしまうような、そういう窮屈さを感じました。学ぶというのは、もっと開かれた行為だと思うのに、それが窒息させられるという感覚。と同時に、一冊の中にいろんなものが入っているんだけど、一つの教科書の中にも脈絡が感じられない。どうしてこの次にこれがきてとか、これとこれがどうしてここにあるのかとか。おそらくは編集委員の意見の収拾ぜんぜんつかないまま、ある妥協のうえに成り立っているのだろうけれど、学ぶ側から見ると、ほとんど了解不能というか、読んだあとにぐちゃぐちゃが残るという感じですよね。(pp.9-10)
また、谷川俊太郎氏;

個性をすごく恐れているんですよね。著者がいないんだから著者じゃないんだけれど、こうなる主体が編集委員会なのか文部省なのかよくわからないけども、すごく普遍性、普遍性とこだわっているわけでしょ。友達はとにかくたくさんいればいいというわけじゃない。友達がたくさんいたって、本当に心の通じる友達なんて一人か二人しかいないはずなのに、そういう態度がずっと見え隠れするんですよね。本当の普遍性というのは、絶対に個性とか個別的なものを通してしかあらわれてこないという考え方がここにはまったくない。(p.11)
また、1990年代以降学校教科書はこう変わっているのかということで。斎藤次郎氏;

ぼくがいちばん強く感じたのは、ぼくが使ったときの教科書は、こんなに色がついていなくて、貧しい教科書だったっていうこと。忘れもしませんが、一九四六年の四月に入学したとき、半月か一ヵ月ぐらい待たされて国語の許可書がきたんですが、それが三二ページ分の全紙がきて、正しく折らないと乱丁になっちゃう。それを母親が糸でくくってくれたのが最初の教科書でした。そういうのから見ると、すごく体裁がよく、きれいにできていて、そのきれいさとか漫画っぽいイラストとかが、一所懸命子どものほうににじり寄っているという感じです。つまり子どもにサービスしているつもりなんでしょう。教科書らしくない教科書にして、大人の頭の中で想定される子どもの好みみたいなものににじり寄っている。子どもが飛びついてくれるという自信も確信もまったくないわけで、必死になっていろんな形でサービスをしているんだけども、だいたいが空振りに終わっているようです。その迫り方が、子どもの急所に迫ってきていない。(略)
一所懸命子どもに喜んでもらおうと思ってやっているんだけれども、同時に絶対わからなきゃだめだよというふうな押しつけがましさを本質としてもっているものですから、子どもの気持ちに向かい合おうとする部分が、みんな裏目に出てしまっているような気がしました。(pp.6-7)