藪の中?

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080513#p2
http://d.hatena.ne.jp/demian/20080513/p3


で知ったのだが、「日本記号学会」のシンポジウム「すべての女子は《腐》をめざす─BLとフィクショナリティの現在」が問題になっているらしい。


室井尚http://tanshin.cocolog-nifty.com/tanshin/2008/05/post_df4f.html
font-daさんhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20080510/1210438151


室井氏はこのシンポジウムの司会者であり、font-daさんはフロアにいた。全く現場を知らない人間から見ると、同一の場所・同一の時間に全く別のシンポジウムが行なわれていたかのようだ。私は最初にfont-daさんの文を読んだのだが、彼女が問題にしているのは壇上にいた人たちも含む、その場にいた日本の記号学者たちのセクシズムが露呈してしまったということ。読んでいて、これはひどいぞとその怒りに共感した。それに対して、室井さんはセクシズム云々ということは一切言及せず、シンポジウムがオタクどもに荒らされてしまったことをとっかかりに、(「腐女子」を含む)オタクの「データベース型消費」を批判する。これはこれで、興味深くかつ妥当な批判だなと思ってしまう。特に、これとは別の日の奥泉光を交えたシンポジウムについての、(そこでは)


では、物を作り出す側の作家である奥泉さんと、二人のデータベース型消費者の対比が浮き彫りになってくる。プロットとキャラのデータベースからフィクションのジャンル論を語る二人に対して、作り手の奥泉さんは、「物を書くということは、それだけには留まらないsomthing else があって、それは書いてみないと分からない」と言う。すると、それは直ちに「そのsomething elseというのは、ノリとかグルーヴ感とかいうものですよね?」と、消費者から見た商品特性に変換される。この唖然としてしまうような取り違えには誰も気づかないまま、物を作る側とそれを消費するだけの側とのすれ違いは最後まで続いていく。「奥泉さんの小説を読んで泣いたんです。泣き要素というのは、萌え要素と比べて数は少ないんですが、奥泉さんはそれをちゃんと押さえて書いている」というような発言。読者が泣くのは感動するからではなくて、きちんと泣き要素を取り込んだ優秀な商品だからだと言いたいようだ。自分に充分な「快楽」を与えてくれる商品としてしか「文学」や「芸術」もありえない。そこではサブカルチャーも伝統文学もすべてゲームの規則を備えたデータベースの項目、消費者に個別的で多様なニーズに応えた快楽をもたらしてくれるグローバル・スーパーマーケットに並べられた商品として等価である。データベースの無時間性が、この終わらないワンダーランドを支えてくれている。この、もはやアイロニーとも呼べない程のどうしようもないニヒリズム。フロアからも、オタク的知識をひけらかし、2ch的に「おまいら、まだまだだな」というようなことを言いたがる質問者が次々現われ、もはやあきらめた。「データベース型消費」者たちは気づかないうちにこんなに増殖していたのだ。東浩紀の影響力は思っていた以上に凄い。BLや「ラノベ」の「ユーザー」が蔓延していくわけだ。
という指摘は、本質主義批判としてかなり秀逸であると思った*1。所謂オタク文化を擁護する人*2はこれに対して、具体的且つ有効な反論を用意しなければならないだろう。
勿論、当日現場にいて、室井氏から被害を受けたという千野帽子さんの証言*3も読んでいるので、室井さんの主張が全面的に正しいとは思っていない。要するに、〈羅生門問題〉なのだ。
室井さんによれば、当日の模様は録画してあるという。〈羅生門問題〉ならエスノメソドロジストに任せるしかないだろう。ということで、誰かがそのヴィデオを使って会話分析を行なうことを期待したい。勿論それによって、font-daさんが指摘したセクシズムの問題もより具体的に明らかになるだろう。