承前*1
哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)
- 作者: 斎藤慶典
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/04
- メディア: 新書
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また斎藤慶典氏の『哲学がはじまるとき』から。「反復」を巡って。
(前略)思考にとっては、「反復」ということが何か本質的なことなのだ。そして反復の中でのみ、真に「新たなもの」が生まれる。
しかしこの「新たなもの」は、それが反復の中で育まれる以上、みずからに先立ってすでに存在していたとも言えるのだ。妙な言い方だが、すべてはすでに思考されてしまっており、思考とはそのすでに思考されてしまったもののたえまない反復だと言ってもよい。新たな思考は、独創的な哲学は、発明されるのではなく、発見されるのである。それは芸術作品が、たとえば絵画や彫刻であればそれらがそのつど見てとられることの中でのみおのれを全うするのに似ており、また音楽や演劇がそのつど演奏・上演されて聴きとられ・見てとられることの中でのみおのれを全うするのに似ている。それら芸術作品もまた、その反復の中でそのつど新たに誕生し、みずからを全うするのである。その反復の中で、新たなものが付け加えられ、何ものかが捨て去られ、ときには新たな作品の誕生へといたるのだ。(pp.11-12)
これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080411/1207900427の最後の部分への補註でもある。
(前略)思考そのものの在り方である反復は、反復を通してそのつど新たな誕生であり、このかぎりでいつもすでに「変形」されてもいるのだ。まったくもとと同じ、ということはありえないのである。そもそも反復の中でしかそれはありえないのだから、「もとと同じ」と言ったときの「もと(オリジナル)」が当の反復の外部にそれ自体で存在しているわけではないのだ。あるのはいわば反復の「強度」の違い、つまりその反復がどれだけ生き生きと新たなものを生み出しているかどうか、でしかない。たしかに弱々しい反復、ほとんど死んだも同然の反復というのもまた、しばしば存在するのだ。
かくして思考は、つねに「偏差(ずれ)」とともにある。この偏差は、反復の外部にいつも同じものとしてある「もと(オリジナル)」に照らして正されるべきものではなく(そのような「もと」など存在しないのだった)、思考の条件をなすもの、思考を養い・育むもの、あるいはむしろ思考そのものなのである。(後略)(p.13)
また、「芸術作品」の「反復」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070314/1173847536も参照されたい。