〈自分探し〉の予期せざる結果?

「右側に気をつけろ?」*1に関しては、今のところヒントはドストエフスキーということで。

さて、田中秀臣氏がhttp://d.hatena.ne.jp/Hicksian/20080225#1203955506から「例えばグローバリゼーションが可能にする国内での文化的多様性の増大(=within variety)は、多様性の増大そのものが好ましいことに加えて、文化的多様性の増大=「違った私」になる機会と可能性との拡張、を意味するが故に好ましい」という言葉を引用し、


 安達誠司さんとの共著『平成大停滞と昭和恐慌』の中にあるデータですが、デフレが進行するとともに家計・企業ともに現金保有比率が90年代後半から00年代初めにかけて急上昇しました。03年時点で、家計は6.7兆円、企業は5.6兆円が余剰な現金として退蔵されていたわけです。


 貨幣は異なる自分を実現するための手段でしかないと思います(もちろんお金で買えないものもありますがお金を利用することで人生の機会が増加するのも事実です)。しかしデフレが強まると他の財・サービスや多くの資産に比較して貨幣価値が増加してしまう。このことで貨幣を保有するそのこと自体が自己目的化するのです(裏面で消費や投資などの経済活動は停滞してしまう)。


 貨幣を過剰に保有することを目的とする「特定の私」が出現するわけで、その意味では社会的カルト状況が現出しているともいいかえることが可能なわけです。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080226#p2

と述べている。
ここに書かれていることは経済学においてはコンセンサスに属するものなのだろう。
さて、注目したのは「特定の私」とか「違った私」という言葉である。実は昨今blog圏にて話題になっている〈自分探し〉問題に何かコメントしようと思っていたのだ。
ここでは詳論できないが、〈本当の私〉を探し・見つけることは不可能である。その意味では、〈無駄な努力〉であろう。しかし、〈自分探し〉する人は(多分本人が予期しない仕方で)利益を得ている。本物であれ偽物であれ、というか本物も偽者もなく〈私〉しか存在しないわけだが、〈私〉が見出されるのは他人やモノといった自分の外部の何物かと具体的な関係を結ぶことによってである。さらに正確にいえば、その関係から一旦身を引いてその関係が私の反省的な眼差しに捉えられることによってであろう。だから、みんな〈自分探し〉するために、色々なところに旅行に出かけたりとかするわけだ。〈本当の私〉を見つけるというのはアレなのだが、それによって〈私〉のストックは確実に増えているということはいえるだろう。
田中さんの論は、詰めていけば、不況と右傾化或いは排外主義との関係を経済学的に論証するということになるのだろう。ただ、こういうことは昔から或る種の左翼の間ではよく言われていたような気もする。反戦運動の活性化はダウ=ジョーンズ指数に比例するとか。反体制運動を抑え込むには権力は政策的に不況を実現するしかないとか。