「偵察衛星の視点」

橋下徹大阪府知事に当選したことを契機にして、 「上から目線」 云々という議論があった*1
これから書くことはそれとは直接的には関係ない。というよりも、「上から」という言葉に反応したという方が正確なのかもしれない。「上から」という言葉から、911の直後に発表された岡真理「私たちは何者の視点で世界を見るのか」(『現代思想』29-13、pp.105-110)というテクストを思い出した。これは既にアフガニスタンへの侵攻が開始されて以降に書かれた文章である。かなり長文ではあるが、そこから引用してみよう。


(前略)カブールを、カンダハルを、空爆する者たちにとって、アフガニスタンとは、偵察衛星によって観測された地形図に還元され、カブールもカンダハルも、地図上にマークされた「テロ組織」の軍事拠点=爆撃対象に過ぎない。だとすれば、その地に生きる人間たちもまた、彼らにとっては、大地から切り離された存在、地図上にマークされる点、物資投下という作戦対象に過ぎないだろう。
この間、新聞やテレビなどのマス・メディアでアフガン爆撃のようすが説明される際、アフガニスタンの地図や地形図、立体模型が使われている。だが、それはいったい、誰の視点から見た世界なのだろう。鳥瞰図的にアフガニスタン全土を眺望し、爆撃地点をマークする視点。それは、偵察衛星の視点にほかならない。偵察衛星を通してアフガニスタンを見ている合州国政府首脳たちの視点である。そして、彼らは同じその視点――偵察衛星の視点――でもって、「アフガニスタンの人々」を見ているのである。私たちもまた、メディアで報道されるこうした地図や立体模型を通して出来事を理解するうちに、知らず知らず偵察衛星の視点に同一化し、米国首脳陣の視点でアフガニスタンを、そして、そこに生きる人々を眺めているのではないか。だが、そこに生きる「人々」とは、個々の顔や名前をもった生身の、笑ったり、泣いたり、怒ったりする現実の人間ではなく、数に還元される「アフガニスタンの人々」という抽象的存在でしかない。このような視点に立つ限り、私たちはいとも容易に、テロ撲滅のためなら軍事攻撃は避けられない、そして少々の住民の犠牲もまたやむを得ないと考えてしまうだろう。
だが、ヤー、カブール、ヤー、カンダハル、ヤー、アフガニスタンと呼びかける者の視点で、爆撃にさらされて震えおののく木々の叫びを聴き取る者の視点で、世界を見たらどうなるだろう。世界はにわかにざわめき始め、山がもだえ、岩が血を流し、無数の叫びと痛みに満ちたものに変容するのではないか。このとき、一方でミサイルを打ち込みながら、他方で食糧を投下し、それを「人道的」と呼ぶことが欺瞞でしかないことが、そして「人道的」であるどころか、人間性と人間の尊厳に対する侮辱であることが明らかになるだろう。(pp.107-108)
「ヤー、カブール、ヤー、カンダハル、ヤー、アフガニスタンと呼びかける者の視点」云々というのは、

アフガン空爆の可能性が現実味を帯びて語られ始めた頃、新聞に一枚のパレスチナ人女性の写真が載った。黒い衣装に身を包んだ彼女の右頬には、アラビア語で次のようなメッセージが書かれていた――ムスリムたちの心は、おおアフガニスタンよ(ヤー、アフガーニスターン)、おまえとともにある……(p.105)

ヤー、フィラスティーン(おおパレスチナよ)、ヤー、クドゥス(おおエルサレムよ)、まるで恋人に呼びかけるように、パレスチナ人は故郷パレスチナエルサレムを擬人化して、二人称で呼びかけ、その地に寄せる思慕を語る。そこには、オリーブの木々があり、オレンジが実り、黄金の海原のような小麦畑があり、石造りの家々がある。それらの風景は、その地で数十年、数百年にわたって営まれてきたパレスチナ人の生活や記憶や、人々が生きてきた苦しみや悲しみや喜びの記憶と分かちがたく結びつき、その地に生きる人々の記憶そのものと化している。それが破壊されることの痛みを、パレスチナ人は身をもって生きていると言えるだろう。
そのパレスチナ人女性の頬に書かれた「ヤー、アフガーニスターン」の言葉。その言葉は私のなかで、ヤー、フィラスティーン、 ヤー、クドゥスといった言葉たちと響きあう。アフガニスタンの人々よ、ではない。アフガニスタンに向けて呼びかけているのだ。国家としてのアフガニスタンではなく、人間が生きる土地としてのアフガニスタン。爆撃によってえぐられる大地、打ち砕かれる岩、焼かれる木々に対する呼びかけである。(p.106)
と書かれていることに関連する。
「鳥瞰」的な視点を採ること自体は私たちに備わった能力であり、この能力なしには地図を読むことさえできないだろう*2。しかしながら、それによって、下からの視点或いは水平的な視点、また具体的な知覚が隠蔽されたり・抑圧されたりするとしたら、どうだろうか。特に政治や戦争を語ることにおいては。その政治的な帰結は、岡真理さんが書いている通りなのだろうけど、私たちがその人間学的条件において鈍重な身体を持ち、重力によって地面に縛り付けられている(earthbound)存在である以上、「鳥瞰」とはいっても、想像的なものに止まる。つまり、身体や重力を超越できない。東浩紀はその不可能な場所を占めようという欲望を語っているわけだ*3。また、H. Tanaka*4は、想像された「偵察衛星の視点 」に無自覚的に陶酔している。社会はシュミレーション・ゲームじゃないということは言っておこう。
因みに、「擬人化」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060412/1144848790で言及している。また、呼格についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071025/1193332927で言及している。

*1:Cf. http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-561.html

*2:このことについては、『世界を肯定する哲学』における保坂和志の思考に影響されている。

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

*3:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201796826

*4:See especially http://critic3.exblog.jp/8042006/ http://critic3.exblog.jp/8045553/