「疑似科学」批判についてメモ

承前*1

「水伝」問題を巡る大坂洋さんとplasirという方の論争;


http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20080203/p1
http://plaisir.genxx.com/?p=183


ここで抜けているのは、(「疑似科学」も含めた)科学に対する哲学的批判なのだろう。換言すれば、如何にして限定された意味領域(finite province of meaning)としての科学を全体的な生活世界の中に位置づけるのかという問題。
また、大坂さんが指摘している、


ディスコミュニケーションの原因は、私も含めて、ほとんどの人間が幸福な形で科学を受容できていないことにあるように感じます。一方が自分の発言を科学的とし、相手の発言を非科学的とするとき、一般的に、それは「オレは偉くて、オマエはアホ」という意味付けをもって受けとられます。それは発言者にそういう意図がない場合にでもです。

このような場面で、そのような意味付けが生じる責任を発言者に負わせるのは、フェアでないし、議論自体が生産的でないものになるように思います。

私自身についていえば、周囲の科学への不信への悲しさなりをストレートに伝えられないことに、むしろ腑甲斐無さを感じます。

陳腐ないいまわしですが、科学というのは本来、人間の出自なり、学歴なりと無関係なものです。科学的法則は人間を差別しません。しかし、現実には学校という一定の権力関係の中で科学が教えられ、それが人間の選別につかわれています。大元がそこにある誤解を解くには、「科学君へのくやしさ」への配慮でなく、そもそも、そのような悔しさを感じること自体必要ないことを伝えることのように感じます。

という問題は、〈知識の社会的配分(social distribution of knowledge)〉の問題として思考される必要があるように思える。