宗教は美味しいか


昨日書いたものを読んでいて、「神様」と共にする食事はうまくない、ってことかと思いつく。

「行事食」は「神様」と必ず関わるようだし、神への供物を分け合う、の意味もあるんだろう、それで無病息災を願う、とか。

「ばちをあてないでね」と神様に貢ぎ物をする、日本人の神様感は「怖いもの」なのかな。

「もったいないことをすると神様が、、」なんて「脅し」に使うし。(「もったいない」は「お化け」か)

大学時代、クリスチャンの後輩にミサの時食べる白いおせんべいみたいなものと赤いワインはおいしいの?

と聞いて、困った顔をされた。

「おいしいというようなものでは、、」とよく考えたらあれはキリストの血と肉、のはず。

うまかったらよろしくないような、、、(ごめんなさい、神様!バチをあてないで!!)

日本に話を戻して、神様と食べる食事がうまかったら、生きる張り合いがなくなるかもしれないんで、

やはり「行事食」はおいしくなくてもいいのかな。食事は「人」と楽しみたいね。私が神様を苦手なのはそう言う理由か。
http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20080116

というのを読んで。でも、白耳義のシトー派修道院で造られているChimay*1は美味しい。シトー派は白耳義では麦酒を造り、日本の函館では乳製品を作っているわけだが、トラピスト修道院のバター飴も勿論美味しい。昔は北海道のお土産というと、「白い恋人」などではなくバター飴こそが定番だった筈だが。シトー派或いはその歴史的意味について知ったのは、Chimayが私の喉を通り過ぎるよりもかなり前に、今野國雄『修道院』という本によってだったということを思い出したりもした。
修道院 (岩波新書 黄版 151)

修道院 (岩波新書 黄版 151)

ところで、宗教は美味しくなければ駄目だろう。何よりも昔はお祭りの時くらいしかご馳走を食べる機会がなかったので宗教と美味しいものというのはそもそも結びついている筈だというのはあるのだが、〈聖なるもの(the sacred)〉というのは定義上、理性による把握を拒むものなので、直接身体によって感受されなければならないのだろう。そうでなければ、〈聖なるもの〉のリアリティは消散してしまう。また、宗教においてそのような身体性が萎縮してしまうと、宗教は屁理屈と道徳的お説教の集合になってしまい、そうすればますます〈聖なるもの〉のリアリティは遠くなる。
さて、日本の食文化に貢献しているのはやはり禅宗系か。隠元豆とか沢庵和尚とか。そういえば、諏訪の銘酒「眞澄」*2の名前は諏訪大社の御神宝に由来するものだったか。松尾大社*3もあり、日本酒を呑むというのは神道へのコミットメントであるということにしておこう。