「水伝」問題についてあれこれ

承前*1

「水伝」を批判するのに難しい理系的知識はいらない。文系的な知識(言語学の基礎知識)で十分*2
さて、http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-551.htmlに、


はじめまして。
疑似科学の事でなんでここまでこじれてしまうのでしょうね?

疑似科学を批判するとなれば、神社仏閣、おみくじ、占い、神に祈る...など、どれもが疑似科学の類いに入ると思うのですが...。

そういう同じ目線で捉える事って難しいのかな?

水からの伝言も、仏像写真集も同じものではないかと考える私。

というコメントがあったので、これを出発点にする。「仏像写真集」と「水伝」は違う。何故なら、「水伝」は〈科学〉を自称しているからだ。「神社仏閣、おみくじ、占い、神に祈る.」、これらは〈科学〉を自称してはいない。「水伝」は、たんなる〈いい話〉ではなく、(学会発表など)〈科学〉をウリに世間にアピールした。なので、〈科学者共同体〉のメンバーから〈科学〉的に批判を受け、〈科学〉的に「疑似科学」と認定されても、それは自己責任というものだろう。問題は、それが道徳教育に利用されているわけだが、それを使っている教師は「水伝」が〈科学〉だと信じて、使っているわけだ。つまり、〈科学〉によって道徳を基礎付けようとしている。〈科学〉的に正しいからその道徳は正しいといっている。では、「水伝」のような如何わしい「疑似科学」でなくて、まっとうな〈科学〉によって道徳を基礎付け、それを道徳教育に利用すれば問題ないのだろうか。そうとは思わない。そもそも道徳を教育することが可能かどうかが問題なのだが*3、それはさて措き、〈科学〉が道徳に介入すること、さらにはそれを基礎付けようとすることは越権であろう。同様に、代々木駅の近くの政党のように〈科学〉によって政治を基礎付けようとするのも、〈科学〉の濫用だろうと思う。何故、こういうかといえば、〈近代〉のある種の側面を擁護したいと考えるからだ。論証はすっ飛ばして、以前書いた一説を引用しておく;

米国やイスラーム圏を中心とした〈原理主義〉にしてもそうなのだが、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061101/1162378555で言及した小堀桂一郎の思考でもそうなのだが、「水伝」の提唱者やそのフォロワーたちには、藝術、科学、宗教、道徳etc.という諸領野がひとつに統合されずに併存している状態という意味での〈近代〉に対する苛つきがあることはたしかだ。これについて本格的に論じることは勿論できないが、ひとつ指摘しておけば、群雄割拠的状況の統合という野望は、もし実行されれば、統合どころか、それぞれの領野を致命的に損なってしまうリスクが高いということである。もしかして、「水伝」の提唱者やそのフォロワーたちにはある種のアニミズムへの憧れがあって、自然のスピリチュアルな尊厳を恢復させたいという願いがあるのかも知れない。しかし、実際の効果は自然(水)の人間的主観性への服従であって、そこでは自然の超越性は決定的に損なわれている。さらにいえば、この人たちは決して水に出会うことはない。この人たちが出会うのは水に投影された自分でしかないからだ。うっかり忘れていたが、何処へ行っても自己にしか出会わないというのは近代の主要な実存的境位ではある。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061118/1163838464
ところで、〈愛情〉や配慮によって水がきれいになるということはある。しかし、それは「水伝」などとは関係なく、例えば現在滋賀県知事になっている嘉田由紀子さん*4がかつて調査した琵琶湖周辺の水利システムなどに現れている。また、(水ではないが)吉野の桜を題材に〈賞でられる自然〉という概念を提示した鳥越皓之『花をたずねて吉野山』(集英社新書)とか。
花をたずねて吉野山―その歴史とエコロジー (集英社新書)

花をたずねて吉野山―その歴史とエコロジー (集英社新書)