横書き/縦書きとか

承前*1

またもや、Skeltia_vergberさん*2に教えていただく。
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070714で、『ダ・ヴィンチ』2007年7月号に載った「ケータイ小説」ファンの10代女性の座談会からかなり長い引用がなされている。その中で、


松本:Yoshiの『Deep Love』は中学校のときに読んだよ。今流行ってるケータイ小説とはちょっと違うけど、あれは横書きだったからスラスラ読めた。横書きのケータイ小説なら一つの話を一晩で読んじゃうこともあるし。

中島:やっぱさ、横書きかどうかって重要だよね。小学校の頃、あまり興味のない小説を無理矢理読まされることがあったけど、普通の小説って全部縦書きでしょ。それでイヤになったところがある。

一同:あ〜、それわかる!

柳沢:縦書きで書かれていると文字が詰まりすぎてるように見えちゃうんです。横書き独特の空間? セリフだけで読ませちゃうような部分が堅苦しくなくていいかな。

というくだりがある。
たしかにインターネットで読む文章というのはほとんど全てが「横書き」だといっていい。しかし、新聞や雑誌も含めて、紙の本の場合は「縦書き」の方が多い。「横書き」は理系の学術書や教科書という感じか。勿論、社会科学系の学術書や教科書でも「横書き」は多いわけだが。今思いついたのだが、社会科学と人文学を区別する手だてとして、社会科学は「横書き」もOKだが、人文学ではそうではないというのはどうだろうか(語学は除く)。また、社会科学系の本でも、一般の読書家をも読者層として狙うという場合、やはり「縦書き」ということになるのではなかろうか。「横書き」だと、どうも教科書臭い、あるいは調査報告書。インターネットで読む文章は「横書き」で、ビジネス文書なども「横書き」が支配的になっている中、紙の媒体では理系のもの、学術書的なものを除けば、「縦書き」の方が支配的だということは、たんに昔からの習慣ということだけではなく、「縦書き」の方が読みやすいということを、多くの日本語使用者が感じているということなのではないか。でも、「横書き」の方が読み易いんですかね。ただ、「縦書きで書かれていると文字が詰まりすぎてるように見えちゃうんです」という発言があるが、これって、「横書き」か「縦書き」かという問題とはちょっと違うのでは? 今書いているパラグラフはWordの画面だと、既に40字詰め10行を超えている。かなり字が詰まっているように感じる筈だ。また、「縦書き」だって、頁がすかすかになるように書くことはできる。或いは、彼女らは「縦書き」の本という支配的な制度に反撥しているのか。
さて、「横書き」の利点として挙げられるのは、マルティリンガルなエクリチュールにより適合しているということだろう。ここで、突然、From here on I am going to write in Englishというふうに、日本語から英語に移行した場合、「横書き」だと、読者の視線はスムーズに中断なく動く。しかし、「縦書き」でこれをやれば、読者の視線の動きは中断されて、それとともに読みも中断される。何しろ、視線の方向を90度回転させなければならないのだ。
「横書き」か「縦書き」かということでは、以前漢字にしても仮名にしても、そもそも「横書き」を想定してデザインされたものではないので、「手書き」で「横書き」するのは疲れるというようなことを書いたことがある*3
ところで、「ケータイ小説」絡みでは、速水健朗氏の意見*4が興味深い。速水氏は児童文学評論家の赤木かん子さんを援用しているのだが、それによると、最近の若い女の子は「事実を元にしたものにしか興味を示さない」。つまり、必要とされているのはノンフィクションであって、フィクションではない。「本を読む前に図書館の司書に「これって本当にあった話?」と聞く子も多いとか」。これについては、勿論統計的な実証を俟たなければならないのだが、メモをしておくには値するといえるだろう。ただ、考えてみれば、こういうことって、別に新しいものでも何でもないという気もする。日本の近代文学では、小説でありながら虚構ではなく事実をウリにしていた伝統が存在していた(今も存在しているか)。私小説である。また、(多分ジェンダーとしては男に偏っている)大人が好む小説の類として、歴史小説があるが、これは小説といっても歴史的事実を担保にしている。経済小説にしてもそうだろう。極論してしまえば、日本の小説では虚構で勝負するのではなく、安易に事実を担保にするものが昔も今も多いといえるのではないか*5