考えると量るそのほか

承前*1

雄羊 (ちくま学芸文庫)

雄羊 (ちくま学芸文庫)

デリダ『雄羊』の続き。
デリダは先ずパウル・ツェランの「大きな、赤熟した穹窿(GROSSE, GLUHENDE WOLBUNG)」の最後の一行「世界は消え失せている、私はお前を担わなければならないDie Welt ist fort, ich muss dich tragen」を引用したが(p.23)、それについて、「なぜ私は、まず最初に「世界は消え失せている、私はお前を担わなければならないDie Welt ist fort, ich muss dich tragen」という最後の一行を、他のものはさておきただそれだけを、おそらくは不自然なし方で孤立させて引用したのだろうか」と自問する(p.27)。そして、


おそらくはその一行に、ある種の重荷=責任(charge)−−私はすぐあとで、その重荷=責任の重要性〔portee〕を量って〔peser〕みるつもりだ−−を認めるため、それを吟味する〔soupeser〕ため、その重みに耐えるため、ひょっとするとそれを思考する〔penser〕ためかもしれない。重さを量る〔peser〕とはどういう意味か。計量すること〔pesee〕だろうか。思考する〔penser〕こと、それはまたラテン語でもフランス語でも、重さを量り〔peser〕、穴埋めし〔compenser〕、釣り合わせ〔contrebalancer〕、比較し〔comparer〕、検討する〔examiner〕ことなのである。だからそのためには、つまり思考し〔penser〕、重さを量る〔peser〕ためには担わ〔porter〕なければならない。仮に私たちが語源を全面的にあてにする−−私は決してそうするつもりはないが−−ことができるとしても、私たちのフランス語では、次のようなDenken〔思考すること〕とDanken〔感謝すること〕のあいだの語源的近さという幸運に恵まれていないことは明らかだ。(pp.27-28)
として、ハイデガーの『思考するとはどういう意味か(Was heisst Denken?)』から、「思考されたもの〔Gedachten〕には、そしてその思考〔Gedanken〕には(略)感謝(Dank)が属している」云々という一節を引用する(pp.28-29)。さらに、

(略)謝礼のやりとりにはつねにある種の代償〔compensation〕という可能性が残るのだとすれば、私たちのラテン系言語では、(略)思考すること〔penser〕と重さを量ること〔peser〕のあいだの、つまり思考と重みのあいだの親交がある。思考〔pensee〕と重要性〔portee〕のあいだの。そこから検討〔examen〕が生じる。ある思考の重さは、つねに検討を要請し、つねに検討を自称する。ご存知のように、ラテン語でexamenとは、人々がそれに担わせるものに関する正確さが、そしてたぶん判断の公正さが託される秤の針のことなのである。(p.29)
ここではラテン/ゲルマンという対立も召喚されているわけだが、それ以上に重要なことは思考と計量の関係についての示唆であろう。計量可能/計量不可能という『法の力』で述べられた法/正義の対立をマークしておくべきだろうか。思考は正義よりも法に類縁性を持つことになる。なお、思考と計量の関係は、英語で言えば、account(加算する、合計する、説明する)とかtell(数える、区別する、語る)だろうか。また、「謝礼のやりとり」云々という部分に関しては、贈与の不可能性について論じられた「時間を−与える」が参照されるべきだろう。
法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)