実は増えているらしい

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071104/1194112428で、 米国では日本語学習者が減少しているという国際交流基金の調査に言及したのだが、「うに」さんがModern Language Associationによる米国の高等教育機関における語学授業履修者の調査に言及している*1。それによると、2006年に日本語を履修していた人は、2002年よりも27.5%増えて、66,605人だった。順位としては、西班牙語、仏蘭西語、独逸語、手話(ASL)、伊太利語に次ぐ第6位。中国語履修者よりも僅かに多い。興味深いのは外国語履修者そのものが全体で12.9%増えていることだ。少なくとも、高学歴者のレヴェルでは外の世界に自らを開くという傾向が米国でまた出てきたのか。伸び率で著しいのはアラビア語の126.5%で、これはやはりご時世? また、羅典語や古典ギリシア語も増えている。


さて、デリダの『雄羊』*2の続き。

雄羊 (ちくま学芸文庫)

雄羊 (ちくま学芸文庫)

先ず、パウル・ツェランの「大きな、赤熟した穹窿(GROSSE, GLUHENDE WOLBUNG)」*3の最後の一行*4である

世界は消え失せている、私はお前を担わなければならないDie Welt ist fort, ich muss dich tragen
が引用される(p.23)。そして、この詩が収められた詩集『息の展開(Atemwende)』をツェランの「死のほんの少し前に」もらったことが言及され*5

私がここで彼の声を聞かせるのは、いま私が私の内でその声を聞くのは、パウル・ツェランというこのもう一人の友に対するガダマーの賛嘆の念を、私が分有=共有しているからである。ガダマーと同じように、しばしば私は、夜、パウル・ツェランを読み、彼とともに考えようとしたものだ。彼とともに、彼の方に向かって。私がもう一度、この詩を出迎えたいと願うのは、実を言うとガダマー自身に、私の内で私の外の(en moi hors de moi)彼自身に語りかけるふりをするというのではないにしても、語りかけようと試みるため、彼に話しかけるためなのだ。(p.24)
と述べられる。また、彼の読解は「不安げな、震えおののく解釈になる、たぶん解釈というものとはまったく別のものにすらなるだろう」(Ibid.)と。
ここでは、「「対話」という二者関係に常に神(Dieu)という第三項が介在していることになる」*6ということを再度マークしておく。

話は全く変わって、篠原資明『ベルクソン−−〈あいだ〉の哲学の視点から』を読み始めたのだが、http://d.hatena.ne.jp/yuyake-bancho/20071023ではかなりネガティヴな評価が下されている。

ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)

ベルクソン―“あいだ”の哲学の視点から (岩波新書)

*1:http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_0055.html

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071102/1194030402 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071106/1194360131 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071112/1194806734 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071114/1194978112

*3:pp.24-26に全文が引用されている。

*4:何故、最後の1行をいきなり引用したかということについては、p.27以降で詳しく言い訳されることになる。

*5:Ibid. デリダツェランの関係については、林好雄氏の「訳者解説」pp.181-184を取り敢えず参照されたい。

*6:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071114/1194978112