「悪魔憑き」が増えている?

http://d.hatena.ne.jp/duskTdawn/20071104#p1に、知り合いのカトリック神父から伺った話として、最近「悪魔憑き」が増えているということが出てくる。記述の内容からして、よく言われる〈魔が差す〉というような比喩的なものではないようだ。本当なのか。
ところで、最近波多野精一『基督教の起源』(岩波文庫)を捲り始めた。その中で、波多野は、古代ユダヤ教における「二元的傾向」の出現として、


神と正反対なる悪魔てふ思想は旧約書には未だ現れなかったが、時とともに勢力を得て、イエスの時代には一般に弘まった通俗の信念であった。この観念の出処が何であろうとも、そがユダヤ人の宗教意識において活きたる勢力となった事実は、彼らの神の信仰がいかに活気を失ったかを証する。己が民族の幸福と光栄とを現在に見るを得ざる彼らは、この世をもって悪魔の世となした。神の下に天使の群のあるごとく、悪魔は己が配下に幾多の悪魔を率いるもの、と彼らは信じた。イエスもまた悪魔および悪鬼の存在を信じた。しかも彼は活きたる神を深く己に経験し、己が活動によってそれらが全く勢力を失うものと考えた。活きたる神は彼において再び現在に働くものとなった。この点において彼は、イスラエルの宗教の真髄を発掘しその真の生命を危険なる病毒より救ったのである。(pp.34-35)
と述べている。勿論、ユダヤ教にコミットする人はこの説明を首肯できないだろう。
波多野精一の『基督教の起源』の初版は明治41年である。勿論、編輯部によって表記が今風に改められているということもあるのかも知れないが、記述にそれ程の古めかしさは感じさせなかった。というか、私(私は波多野のように基督教にコミットしていないが)も波多野も〈ポスト啓蒙思想〉という地平を共有しているんだということを実感した。
『基督教の起源』は波多野が独逸留学から帰朝した直後の著述。当時の独逸語圏を中心とした聖書学の内容をよく伝えるか。
基督教の起源 他1篇 (岩波文庫 青 145-1)

基督教の起源 他1篇 (岩波文庫 青 145-1)