「仮定法にご用心」http://d.hatena.ne.jp/shintak/20071013/1192285491
ブレヒトの「あとから生まれる者へ」(英訳)の最後のヴァース、
を巡って、
In my time streets led to the quicksand.
Speech betrayed me to the slaughterer.
There was little I could do. But without me
The rulers would have been more secure. This was my hope.
So the time passed away
Which on earth was given me.
論旨からすれば、ここで重要なのは「ありえたかもしれないユートピア」に過去の事実を突きつけてしまう直説法過去の身も蓋もない力だろうか。
ここを読んで死にたくさせるのは、仮定法過去完了(would have been...)と過去形(was)の連続である。私はかねがね、文学における仮定法の役割を意識してきたが(修論でも論じたなあ)、ごく単純に見れば、仮定法はありえたかもしれないユートピアを示す方法である。大げさに言えば文学というのは仮定法的である。しかし、この詩では(ドイツ語原文にあたっていない&あたれないのがつらいところだが)、直後の"This was my hope"が、その仮定法的空間を、過ぎ去った過去に放擲してしまう。支配者に対する詩人の小さな勝利が、過去形によって嗤われてしまう。それによって詩人(語り手)はどうしようもなく「悲劇的」なポジションにからめとられる。読んでる私は、死にたくなる。そういうことである。