仲俣暁生「読書の自由について」http://d.hatena.ne.jp/solar/20071013#p1
このテクストが書かれた背景は色々と複雑なものがあるらしい。それらについて詳しくは知らず、従って何もいえない。ただ、仲俣氏がここで掲げている
という類型は興味深い。「分析的」と「批評的」の違いは、私の馴染みの用語でいえば、内在的/外在的ということだろうか。仲俣氏も「また「分析的」な読み方は、意外と「親和的」な読み方と近いところがある。それはテキストの構造を内側からなぞるように読むからで、批評はそれとは違って、小説の輪郭を外側からなぞるようなことを指すのだと思う」と述べている。
・分析的に読む読者(小説家)・批評的に読む読者(批評家)
・親和的に読む読者(ファン、信者)
・消費的に読む読者(消費者)
「消費的」な読み以外の3つの類型は、一応ベタならぬメタな読みということになるのだろう。メタな読みに焦点を絞れば、仲俣氏の分類とは(交叉するかも知れないが)一応別に、2つの仕方で線引きをできるのではないか。
先ずは、〈読むことそれ自体〉への省察を通過しているかどうか。私たちはお気軽に読む(或いは理解する)という言葉を使うし、事実、常に既に、粗雑であれ精緻であれ、読んでしまっている。では、読むってどういうことだといきなり問われたら、答えに詰まってしまう。普通は、アカデミックな読みにおいても日常の娯楽的(「消費的」)な読みにおいても、この〈読むってどういうこと?〉という問いは、封印またはスルーされている。後者に関しては、セックスの最中にあれこれ考えてしまったら萎えちゃうよと隠喩的にいっておこう。また、〈読むことそれ自体〉を自明なものとすることによって、大層な理論を使ってテクストを裁くことが可能になる。これとは逆に、〈読むことそれ自体〉で躓き、口籠もってしまうような読みでは、明晰にテクストを裁断し・貼り合わせるということは不可能だ。では、どうする? 〈読むことそれ自体〉で躓いた読者は〈読むこと〉への現象学的省察を余儀なくされることになるだろう。といっても、それはフッサールやハイデガーを持ち出すことではなく、自分のそもそものテクストとの遭遇に還えるということである。テクストとの出会いを反復し・擬いてみること。勿論、誰でも童貞は一度しか失うことができないのであって、それは回想的或いは想像的にしか遂行できない。また、私がテクストとの遭遇を回想的・想像的に再構成できるのは何故かという問いが立ちはだかってしまうかもしれない。
さらに、読みのテクストに対する暴力性、或いは読み手がテクストを支配してしまうことの可能性/不可能性に対して意識的かどうかということでも線を引くことができるだろう。或る意味で、読みというのはテクストがテクストして存立することにおいて決定的な契機をなす。読むことによってテクストはテクストとして存立するのであって、読まれないテクストは未だテクストではない*1。しかし、だからといって、読み手が思い通りにテクストを支配できるわけではない。著者もテクストを支配できないように。
ここで、故梅木達郎のデリダについての記述をメモしておく。梅木はデリダによるテクストとの付き合い方を「テクストを支配しようとするのではなく、また忠実に反復しようとするのでもなく、テクストがみずからを開くがままにまかせつつ、テクストへの暴力をあたうかぎり回避すること」、「テクストを支配することなく、無条件で受け入れ、かぎりない注意をもって歓待すること」(「テクストを支配しないために」in 『支配なき公共性』、p.145)と表現している。さらに引用してみる;
多分、デリダとは対照的な〈テクストを支配しようとする〉読みは、例えばサルトルによる読みなのだろう;
デリダは、自説を体系的に構築する哲学者(たとえばヘーゲル)ではない。彼の言説は、いつも他者のテクストについての読解という形をとる。本格的な議論をしようとするとき、彼はいつもだれかのテクストを引用することから始める。しかもそれは、なにか決定的な仕方で引用されるのであり、思いがけない意味や今まで考えてもみなかった展望が開けてくる。そのスリリングな読みによって、われわれは、プラトンを、ルソーを、ヘーゲルを、ハイデガーをあらたに発見しなかっただろうか。
デリダほどの者なら、どんなテクストを前にしても、それを見事に分析し、総合し、端から端まで論じ尽くすことができただろう。あらゆるレトリック――哲学的であれ文学的であれ――通暁していた彼の手にかかれば、どんな難解なテクストであっても、たちどころにクリアな見取り図ができあがっていただろう。重要なのは、彼がそうしなかった、ということにある。つまり、デリダはテクストを支配しようとはしなかったのである。(pp.142-143)
また、読み手がテクストを支配することの不可能性を巡って、梅木は『グラマトロジー』のテクストに外部なしという有名な命題を踏まえて、
サルトルはジュネの謎を解く「鍵」を「他者であろうとすること」という「根源的選択」に見ている。この「鍵」を使えば、ジュネのテクストも伝記的事実も、そのセクシュアリティでさえも、すべて説明できるだろう。このサルトルの論法は、万能の鍵を所有した看守が、泥棒ジュネを解釈格子に閉じこめ、内と外から監視し、「真理」を引き出そうとするのに似ている。だが、ジュネは、そうした意味の支配に抵抗するために、テクストを組織したのではないだろうか。テクストに対する最高の注意深さは、意味の牢獄にそれを閉じこめることではなく、それが逃れ去るがままにまかせること、その逃亡の跡をしっかりと見守ることにあるのではないか。(pp.143-144)
と書いている。ここで梅木が提示しているデリダは或る意味でロラン・バルトへ接近することになるだろう――ecrir/lire→lecrir。
われわれはテクストを「外から」完全に統御することなどできはしない。デリダにとって、「読む」とは作家の支配からも読者の支配からもテクストを解放してやり、矛盾やズレを注意深く見守りながら、意味が生産されるがままにすることだ。それがたんなる再生産ではなく、かぎりなく創造に近い作業であることは、デリダの全仕事が示してくれている。(p.145)
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*1:ただ、読まれないこと、読むことが不可能であることに意味があるテクストもある。「柳生武藝帖」とか。