社会化・教育・学校など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071004/1191429610に関して、当のtoledさん*1からコメントをいただいた;


「3つの準位」についてですが、sumitaさんの書き方だと、社会化の必要性が_まず_あり、それを満たすために教育という営みが行われ、その一手段として学校がある、というように読めてしまいます。僕は逆に、学校という装置がまずあって、それが「教育」や「社会化」の必要性と、必要を満たすことができるのは学校だけであるという信仰を生み出していると考えてます。これはたとえば「カウンセリング」との連想でイメージするとわかりやすいと思います。ここ十数年来、災害や凶悪事件があると当然のように「心のケア」の必要性が叫ばれ、その日のうちにカウンセラーが派遣されたりするようになったわけですが、これは超歴史的・自然的に存在する「心のケア」のニーズを(地域社会の衰退などの理由で)心の専門家が担うようになったというよりは、カウンセリングの制度化こそがそれに対するニーズを創出したという面があると思います(もちろんニーズをつくること自体が悪いというわけじゃないですが)。
社会化ということと教育や学校とは同一の準位で語ることはできないと思う。社会化は、私たちの知識や価値観が自分以外の外部に由来することを意味し、つまり私たちの存在が社会的であることをトートロジー的に示しており、その限りで「超歴史的」であるといえるだろう。社会が存在するということはそこにおいて社会化が遂行されているということである。極言すれば、社会を構成するあらゆる行為が(何らかの意味で)社会化であるともいえる*2。それに対して、教育や学校が歴史的な存在であるということはいうまでもない。「学校という装置」が教育や社会化の独占を主張している、また学校が制度として確立することによって、学校によってしか教育や社会化が可能ではないという了解が社会的に広まっているということは、現状の把握としては正しいと思う。しかし、理論的にも現実的にも社会化や教育と学校が等号で結ばれるわけではない。だから、或る意味では、そのようなものにすぎない学校を声高に否定するというのは、まんまと学校の意図に載せられてしまうということでもあり得る。或いは、学校が発するメッセージを真面目に相手にしすぎている。

*1:http://d.hatena.ne.jp/toled/

*2:逆に言えば、これは私たちが完全には社会化され得ないということを肯定することにもなる。