
- 作者: 石川忠司
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/11
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「俺の註釈」;
新田次郎の『武田信玄』は読んでいない。というか、私にとって、新田次郎とは「品格」が好きな数学者の父でもなく、登山小説の人だ。最初に読んだのは『孤高の人』。塩野七生は『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』をかなり昔に読んだけれど、そうだったの? 「思い入れ」ていたという印象は記憶に残っているけれど。ところで、塩野七生をネタに西洋史を語る人って何なんだろうなとは思う。
例えば新田次郎の『武田信玄』など見苦しくってとても読んでいられない。何でお前が信玄の暴虐・残虐行為をいちいち弁護して回るわけ? いくら好きでも所詮は四百年以上昔の赤の他人だろう? その点、歴史上の人物へ同じく思い入れるにしろ、塩野七生の場合は清々しくってかなりいい。彼女のチェーザレ・ボルジアへの思い入れは、「チェーザレ、カッコイイ! 濡れる!」という、よこしまさ――歴史上の人物の享楽を自分のものとして掠め取る――とは無縁の純朴な「黄色い声」なのだから。(p.292)
この本の「解説」を保坂和志さんが書いているのだけれど、「解説」というのはそもそもそういう性質のものなのかも知れないが、かなり褒めすぎのような感じがする。ただ、
というのは大爆笑。
文芸評論はどれもみな、歴史や社会学や精神分析を評論の根拠に置き、読んだ作品を自分が事前に持っていた知の枠組みの中で腑分けすることしか知らない。つまりそれは、作品を読んだことではなくて、根拠とした知の枠組みを確認したことにしかならない。たとえばひじょうに緻密で繊細な彫刻があったとして、その制作者の血液型がO型だと知らされた途端に、「じゃあけっこう大ざっぱな人なんだ」と納得してしまう――世間でうんざりするほど出会うそういう人たちと、大半の評論は思考の型において本質的な違いがない。(pp.310-311)

- 作者: 新田次郎
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- 発売日: 1973/03/01
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