笑い――保坂和志


事故や災害で沢山の人が亡くなったりした場合、また天皇が1人死んだ場合でも、新聞やTV等のメディアによれば、環境は〈悲しみにつつまれて〉しまう。これは既に日本語のクリシェであって、熟達した日本語話者ならば、人の死に対する心的な反応を〈悲しい〉と自動的に記述できなければならないということになる。しかし、それはあくまでもコンヴェンションなのであって、死に対する心的反応状態が常に〈悲しい〉というシニフィアンに収まるかどうかは自明なことではない。心的な衝撃があまりに強い場合には〈絶句〉ということになるだろう。また、様々な感情が入り混じるというのもよくあることだろう。遺産が入るぞとか。(長い寝たきり状態の末に老人が死んだ場合は)やれやれとか。こういった複雑性を取り敢えず捨象して慣習的に〈悲しい〉といっているわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070906/1189054106
と書いた。
これに関連するかどうかわからないが、保坂和志氏の言葉をメモしておく。町田康屈辱ポンチ*1の解説から;

(前略)しかし笑うことは深刻でないことを意味しない。人は楽しいときや気楽なときしか笑わないわけではない。人はいつだって笑う。臨終の席で冗談を言ってしまう可能性だってある。それを「不謹慎だ」と言ったとしたら、その人は臨終の場にまで社会を持ち込んだことになる。未体験の場で人がどんな反応をするかなんて誰にもわからないし、それを強制なんかできない。(後略)(pp.210-211)
屈辱ポンチ (文春文庫)

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