Palestine—Edward Said

ペンと剣 (ちくま学芸文庫)

ペンと剣 (ちくま学芸文庫)

承前*1

『ペンと剣』から。
「こういう状況の背景には、パレスチナ問題には単なる政治的な状況変化の問題ではすまない、なにか別次元のものが絡んでいるという感覚があるのではないでしょうか」(第1章、p.39)というバーサミアンの問いに対して、


その通り。なぜなら、パレスチナ自体が例外的な場所だからです。すべての場所は例外的であると言えるのでしょうが、ただパレスチナの場合は他の場所よりも、もっと例外的なのです。言うまでもなく、そこには聖書の余韻があります。(略)また歴史の余韻もあります。パレスチナは数千年にわたって存続し、悪魔や聖者や神々を産み出してきました。地理的な位置のおかげもあって、この土地は、宗教のみならず文化においてもメジャーなものの交錯点にあたっています。東と西の文化圏がここで交わります。ざっと見ても、ヘレニズム、ギリシャアルメニア、シリア、レヴァントなどの諸文化が交錯するうえに、ヨーロッパ人、キリスト教徒、アフリカ人、フェニキア人などの影響が重なり、夢のような錯綜を織り成しています。その意味で、パレスチナ自体は、どれかひとつのレッテルを貼られてしまうことを常にすり抜けてしまう存在なのです。(略)僕らの闘争の目標は、他の者たちを排除してパレスチナが意味するところを独占することではなく、パレスチナのなかにある数多くの共同体や文化の交錯によって形成されている豊饒性にパレスチナ人事心が参加することです。これまで僕たちが闘ってきた相手は、パレスチナは「イスラエル」という名でユダヤ人だけに属しているのであって、現にそこに存在し劣った地位に置かれている他の人々には属していないのだと主張する人々とその思想です。これこそが、僕らのシオニズムに対する闘いの本質です。(pp.39-40)
また、

パレスチナについておもしろいと思うところは、この土地には――いささかお国びいきになりますが――ある種の普遍性があるということです。実際、誰もがこの地との関係性を主張できるような特異な力を持つことによって、エルサレムは世界の中心なのです。僕の生まれたエルサレムは、世界のなかでも他に類を見ない地位を持っています。少なくともその実存的な、また想像的な地位を考えれば、普通の都市とは言えません。しかし、エルサレムを誰かひとりの人物にだけ結びつけたり、キリスト教発祥の地としてだけ、あるいはギリシャ正教の総主教の権威の座としてだけとらえることは、その価値をおとしめるものです。この都市は、古い表層を次々と剥ぎ落としていく異様な力を持つ都市なのですが、この地を支配したいずれの政治構想も主権(イスラエルの場合)も、必ずといってよいほど、それを裏切ってきたのです。ヨルダンとて同じです。エルサレムについてのアラブ側の立場は、この都市を東西に再分割しようというものですが、僕にはとても受け入れられません。エルサレムのような場所については、この都市の地位についての想像的なヴィジョンが必要です。それはエルサレム市民の生活のなかで実現されるべきものであり、治安部隊や告知板、警察によって市民に押し付けられるべきものではないのです。(第2章、pp.89-90)
「エンジニアや建築家や教授など、パレスチナ人の多くが専門職クラスに属しています」(第1章、p.53)というバーサミアンの言に対して;

それは、僕らの多くが行商族であるという事実の自然な結果だと思います。僕らは財や資本を貯め込むことにではなく、教育や技術的専門知識、知的資本などの管理に頼らざるを得ないのです。それゆえに僕らは、いま住んでいるどの社会においても、周辺的な、やや半端な存在であるということを常に意識している流浪の一団なのです。またそれゆえに、僕らの多くがはんぱ者の意識――僕らははんぱ者だけれども、物事をより鋭く見通すことができるという、一種の特権も得ていると感じるようになるのだと思います。(後略)(ibid.)