町田康はサスペンス

屈辱ポンチ (文春文庫)

屈辱ポンチ (文春文庫)

町田康屈辱ポンチ』(文春文庫、2003)を読了したのは先月の末。
感想を一言いえば、サスペンス!ということに尽きるだろう。小説にせよ映画にせよ、ジャンルとしてのサスペンスの正確な定義は知らない。いい加減に言えば、職業的危険引受人(例えば、やくざとか警官とかスパイとか)ではない〈一般人〉が〈事件〉めいたものに巻き込まれ、何かしらの不確定性の経験、自明な日常性の停止(suspending)を経験するということになる。肝要なのは、受動的に巻き込まれるということ。もし、果敢にも能動的に状況を脱しようとすれば冒険物ということになるだろうし、その不確定状態を知的に解決しようと努力すればそれは純粋なミステリーに近づいていくだろう。サスペンスは(キエルケゴールの言葉を盗めば)「恐怖」ではなく「不安(anxiety)」に属する。前者だったら、サスペンスじゃなくてホラーだ。
特にサスペンスを感じさせるのは、表題作ではなく、カップリングされている「けものがれ、俺らの猿と」の方だ。妻に去られ、仕事も切られたシナリオ・ライターの「俺」が「楮山」という超怪しい映画プロデューサーの訪問を受け、「ゴミ処分場建設」を巡る映画のシナリオ執筆を依頼される。そこから、(既に前述の事情により「俺」は日常からは足を踏み外しているのだが)日常からの足の踏み外しが始まる。何よりも「俺」という一人称で語られているので、読み手はどうしても主人公=語り手の視線に同化して、その狭隘な視野を共有せざるを得なくなる。殆ど全てのことが未決着の儘、次々と場面とエピソードが転換し、主人公=語り手と読者は振り回されるのだが、それを支えているのは、突っ込む暇を与えない町田康の〈8ビート化した野坂昭如〉ともいうべき饒舌な文体である。さらに凄いのは、普通、サスペンスにしても何にしても、悲惨な結末とかハッピー・エンドという仕方で決着がついて閉じられ、読者は再度日常世界に復帰することになるのだが、「けものがれ、俺らの猿と」は結末に至っても、また何か起こるんじゃないかという以外に前途を予想することは不可能だ。そういう仕方で終わる。
それに対して、売れないパンク・ロッカーの「俺」が友人の「浜崎」の依頼で、「跋丸」という男に嫌がらせをする表題作の「屈辱ポンチ」は、少し奇麗に落ちが着いている感じがして、少々物足りなかった。それはともかくとして、「パンクロッカーってのは喧嘩が弱い奴がなるんだよ。本当に強い奴はヤンキーになる」(p.151)という名科白とともに、何故か、


いつ来ても緑尠い都心の公園。その公園のベンチに腰掛けて、首を前後に動かし、餌でもあさっているのか、トットットッとあっちに行ったりまん丸な目がどことなく帆一っぽい鳩どもの行動を眺めつつ自分は、なんだ遅ぇじゃねぇか、また大福なんか買ってくんのか、ってなかなか戻ってこない帆一を待っていた。しかしこうしてつくづく眺めてみると鳩というものは、みな同じように見えてその実、一羽一羽、様子の違うもので、もっとも一般的な灰色の奴がいるかと思ったら茶色のがいる白いのがいる、また、それらが混じり合ったような複雑な模様のもいて、いずれにしても天晴れなのは、それだけいろんなのがいながら、一羽として、美しいなあ、と思う色のがいねぇってとこである。みな汚い。またそうして羽の色がいろいろあるかと思ったら、性格というかその行動パターンも鳩によってそれぞれで、一生懸命、餌を拾っている奴があるかと思うと、まるでやる気がない、遊戯機具のうえに蹲っていつまでも動かぬ奴がある。人に近づいてって餌をねだるような仕草をする奴もある。活発に活動しているので真面目に餌を拾っているのかと思いきや、よく見ると女の鳩の後ばかりつけ回している痴れ者もいて、いろいろだ、ほんとうに、と思っているところへ、向こうの方からぼたぼたぼたぼた、と帆一が駆けてきたので、鳩は、わあっと飛び立った。(後略)(pp.185-186)
という描写はいいと思った。
不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)