言語の区別を巡るメモ

先ずは、


 森和也「「漢文」は「中国語」ではない」http://blogs.dion.ne.jp/yohaku/archives/5894143.html


いいたいことはわかるのだが、比較の対象が??である。「漢文」と現代のマンダリン(普通話)を比較しているが、「漢文」と比較すべきは寧ろ現代の口語的な書き言葉である白話文であろう。「漢文」が白話文と違うのは、現代日本の文章が『源氏物語』や『平家物語』の日本語(所謂古文)とが違うのと同じである。漢文はレ点を打って、読み下すことにおいて、日本語へと引き入れられる。「漢文」は中国語でもあり、日本語でもある。いや、「中国語でもなく日本語でもなく、つまりはクレオール的存在」*1と言った方がいいだろう。「漢文」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050717も参照されたい。
それで、http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070910/1189420116。先ず、ここで使われている「宗教」という語については違和感ありと言っておく*2。話を戻せば、ここで言われている言語の「グルーピング」云々というのは、所謂etic/emic問題がさらに先鋭化したものということができるだろう。さて、言語の区別が恣意的かどうかという議論の中で或る重大な問題が隠蔽されてしまっているといえるだろう。それは、私と相手が同じ言語(langue)を話している(書いている)という事実は如何にして了解されるのかという問題である。さらには、区別という振る舞い自体が惹き起こす問題。http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070802も参照していただきたいのだが、スペンサー=ブラウン先生を持ち出す程ではなく、問題は数学と現実の差異に関わっている。区別すること、それは線を引くことであるが、数学的には線は幅を持たない。幅を持った途端、平面になってしまう。しかし、現実には幅を持たない線は存在しない。線を引き・区別すると、その境界線の帰属が問題となってくる。いったい、どっちに属すのか。区別をすればするほど、どっちでもあり・どっちでもないという存在をどんどんと産出してしまうことになるのである。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139318386

*2:「宗教」という語を巡る同様の違和感はhttp://d.hatena.ne.jp/gordias/20070910/1189394434でも感じた。