「それ自体は価値中立的な政治体制であり決定方式であるにすぎない民主政や多数決を望ましいと考える価値理念こそが、民主主義の名で呼ばれるべきイデオロギーである」*1という一文から出発する。実は「多数決」は「民主主義」にのみ関わることではない。意思決定に3人以上がコミットする場合、必然的に「多数決」の問題が浮上する。つまり、純粋な独裁制でない限り、「多数決」は何処かしらで出現する。
では、(「多数決」以外の)「民主主義」の特性とは何か。それは先ず決定に至る議論の過程への参加者が相対的に多いこと、また量的に多いだけでなく、様々な属性を背負った人々でありうるということだろう。さらに、それらの多くの人々が(少なくとも形式的には)相対的に平等であるとされることだ。これにはどういうメリットがあるのか。それは決定の客観性の増大である。多くの様々な属性を背負った人々が決定(に至る過程)に関与することによって、その決定が単一の視点(主観性)に還元され得ないということになり得る。決定が単一の視点に還元されてしまう場合、それは集合的な主観的妄想でしかない。「民主主義」における決定は、それが様々な立場の妥協と摺り合わせの産物であることにおいて、その客観性を確保できるといえる。「民主主義」が擁護されなければならないのは、このような〈世界への配慮〉からである*2。しかしながら、そのようにして確保された客観性は忽ちにして裏切られることになる。つまり、決定は〈国民の意思(総意)〉、〈人民の意思〉とされる。再度〈国民〉や〈人民〉といった集合的な主体(主観性)が定立され、決定は主観的なものとなってしまうのだ。さらに、この主観的なるものは(物象化というメカニズムを通して)その主観性も忘却され、自然化されるというのは常であろうが、実は「多数決」というのは、そうした忘却への抵抗として機能し得るし、またそのようなものとして擁護されなければならない。以前「裁判員」制度を巡って、
と書いた。
2009年から開始されるらしい裁判員制度だが、不確定な情報ではあるが、その決定方式が全員一致ではなく多数決になるらしい。その理由は合議時間の節約のため。実際には、合議を打ち切って採決を開始する議長(司会者?)の権能が問題になるだろう。合議を打ち切るという決定は議長が独断で下せるのか。それとも多数決によるのか、全員一致でなければいけないのか。このような問題があり、また伝え聞く理由を信じれば、それは碌なものではないともいえるのだが、多数決そのものは悪くはないと思う。理由を一つ述べれば、全員一致の決定には抗しがたく、さらにその場合、決定が社会的に構成されたものであるということが忘却・隠蔽され、自然化されることがより容易に起こるだろうが、多数決の場合だと、異論(少数意見)が存在するという事実は打ち消し難く、決定が社会的に構成されたものであるということはより明らかになるだろうということだ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070110/1168405459
さて、
たしかに、「多数決原理」としての「民主主義」が徹底的に貫徹されれば、とんでもないことになり得る。上で「民主主義」の特性として、「多くの様々な属性を背負った人々が決定(に至る過程)に関与すること」というのを挙げたが、「多数決原理」はこの特性をさえ破壊してしまう可能性がある。また、小選挙区制はこの破壊を促進しやすい制度であるといえよう。話を戻せば、「多数決原理」における多数者の圧制によって、マイノリティは民主的に人権どころかその生存まで損なわれることが可能である。だからこそ、「民主主義」は制限されなければならない。何によってかといえば、憲法(constitution)によってである。
何をどう言い繕ってみたところで民主主義原理が本質的に多数決原理に過ぎないことは明白な事実であるように思える。思い起こせば小学生時代、クラスで「いじめっ子のリーダー格」が明らかに嫌がらせのつもりで煽りを行い、ある「いじめられっ子」を「学級委員」に選ぼうとしたという事件があった。クラス全員を対象として投票して委員を決めるというやり方で、立候補した人の中から選ばれるというものではなかったようで、考えてみれば無茶なシステムだったようだ。そして「投票」の結果その「いじめられっ子」がいったんは選出されたかたちになったのだが、担任教師の機転を利かせた「指揮権発動」で投票はやり直しとなり、彼はことなきを得た。そしてこのことは、「民主主義」と「個人の自由や人権」などといった価値観とが親和的どころかむしろ対立してしまう結果を招く場合もあることを如実に物語る好例として私の心に深く刻まれることとなった。つまり民主主義的な制度さえ整えれば自動的に自由や人権が確保されるものではなく、それはあくまでそれを担う人々の民度や社会的文脈、経済情勢などに左右される不安定なものに過ぎないということだ。今さら散々聞き飽きた話だと言われそうだが、ナチズムは当時最高レベルの民主主義的制度と言われたワイマール体制下で勃興したことと、そうした怪物を生み出した原因は一般大衆の中にあったことをあらためて想起すべきだと思う。そして「民意」なるものにほとんど疑いを抱かず、多数派大衆はデフォルトで正義=リベラルな思想の持ち主であるはずだといった錯誤に嵌ってきた左派は、自らの理念が逆手に取られた場合のことを考えなかったという意味において重大な責任を負っているとも言えるのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20070714/1184390579
これは現在護憲/改憲が問題になっている所以であると思う。しかし、ベネズエラのように*3、また未来の日本のように、憲法が「主権者の横暴に歯止めをかける」機能を損なうというのも「デモクラシーのリスク」として引き受けなければならないのだろう。しかし、上述のように、そこにおいて抵抗の契機となりうるのは「多数決」なのである。言いたいのは、(時には偏屈でさえある)少数派というのは行政=管理=経営(administration)にとっては害であるかも知れないが、世界にとっては益であるということである。
「弱者の声が多数決の名のもとにかき消される」って、デモクラシーを字義通りに取れば、そういうことになるでしょう。そもそも問題なのは〈主権(sovereign)〉ということなのだけれど、この問題はパスするとして、君主であれ、人民であれ、主権者の横暴に歯止めをかけるためにこそ、憲法が要請される。デモクラシーは立憲主義によって補完されなくてはならず、それによって、君主も人民も〈超憲法的〉存在ではなく、憲法内的存在としてドメスティケイトされる。マイノリティの利害=関心が取り敢えず否定されないでいるというのもこれによってである。立憲主義による歯止めはあるものの、「多数決の名のもと」でのマイノリティの圧殺というのは、デモクラシーのリスクである。国民はお慈悲などとは無縁なので、マイノリティにとっては、かつての君主によるパターナリスティックな庇護というようなものも簡単には期待できない。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060221/1140507605
さらに、「民主主義」の特性として、決定の帰結への責任もひとりひとりに分配されてしまうということがあるが、これはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070828/1188277338とも関係する。
*1:http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-345.html
*2:http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-345.htmlでは、個人の「自己決定権」への配慮は見られるが、〈世界への配慮〉は等閑視されているといえよう。