「屁」とは何ぞ哉

「ヘリクツの「屁」について考える」http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070825/1188054094


実はちょっぴり失望もした。「ヘリクツの「屁」」を巡る言語学的考察或いは思考と生理作用の連鎖関係を巡る身体論的考察が展開されるのかと一瞬思ったからだ。しかしながら、それは裏切られ、「「人を殺してはいけないのはなぜですか?教えてください」と、したり顔で問うクソガキを想定して」のポイントは


クソガキに大人たちは諭す、曰く「もし君が殺されたら困るじゃないか」とか「法律に違反するからだよ」とか「人権侵害だから」とか「命は何人たりとも奪ってはいけない」など。でも、クソガキは、待ってましたとばかりにそれらをすべて論破してしまう、曰く「僕は別に殺されてもかまいません」とか「法に触れて捕まってもかまいません」とか「人権を侵してもかまいません」とか「軍隊は命を奪ってないんですか?死刑はどうなんですか?畜産業は?狩猟業は?漁業は?」と。

大人たちは困惑しながらも、「人を殺しちゃいけないのは『ダメなものはダメ』に決まってるだろうが。ヘリクツばっかりたれるクソガキめ」と、件の意見を「ヘリクツ」認定し安心する。おおかたの議論はそこで終了。また日常にもどるという次第だ。


当然ながら、まっとうな「理屈」を言っているのは、「クソガキ」のほうである。上の問答ではクソガキのほうがより「真実」に近い。ただクソガキも大人も、前提が間違っている。「人を殺してはいけない」という事実は、この世界のどこにも存在しない。ちょっと考えてみればわかるが、大人たちの「絶対に殺してはいけない」という主張と、クソガキの「殺していい場合もある」という主張は圧倒的に前者のほうが弱い。「絶対に殺してはいけない」というのは「0(ゼロ)」の主張だが、クソガキのほうは、「0<x<1」の主張をしているに過ぎないことを考えれば明白である。


つまり「人を殺してはいけない」は事実ではない。事実としてより妥当なのは、「それ相応の条件がなければ人を殺してはいけない(=それ相応の条件があれば殺してもいい)」である。軍隊しかり、死刑制度しかり。なお、日本の刑法にも「人を殺してはいけない」などとは一言も書かれていないことに注意されたし。人を殺すとどれだけの刑罰になるかが書いてあるだけである。

という辺りか。
さらにこれを補足する意味で、石川忠司の言説を引用しておく;

高校だか中学だかの生徒が、「体育祭を中止しないと、自殺します」と学校側を脅かし、話題になった事件があった。宮台真司は、この事件について、全体の構造を視野にいれて考える必要があると語っている。つまり、一方に、ますます盛んになる教師の体罰があり(九五年が過去最高、九六年はまだデータなし)、もう一方には、学校側の「お約束」でしかない「反省」、「生徒の人間性の重視」をモットーとする「教育方針」がある。そこで、生徒の誰かが、「たとえポーズに過ぎないにしろ、立派な理念が表明されている以上、それを実際の場で守ってもらおうか」と企み、脅迫を実行した、というわけだ。
教育者の批判的言語=「文語」を無理やり機能させたのであって、大した「小僧」と言うべきだ。一人前の唯物論的ならず者である。彼(彼女)の「卑怯」なやり口には見習うべきところ、参考にすべきところが確かにある。(「唯物論的ならず者」in 『極太!!思想家列伝』ちくま文庫、pp.23-24)
極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

極太!!思想家列伝 (ちくま文庫)

ところで、「ヘリクツの「屁」」って何よ。gasということに関しては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070815/1187201518もご覧下され。