ableとdisableの間(メモ)

 藤崎圭一郎「冗長美論・後編」http://cabanon.exblog.jp/5754173


これは「冗長性(redundancy)」についての論攷なのだが、それとは別に気になった箇所をメモする。


[1980年代に]理想の身体イメージが現実世界で筋肥大する。ブルース・リーのしなやかな肉体美は、アーノルド・シュワルツェネッガーの筋肥大全開の肉体美に取って代わられる。細身のアントニオ猪木はマッチョなホーガンに想定外の失神を喰らわされる。

肉体の肥大化の背景には、トレーニング技術と栄養学の進展、それに薬物の開発がある。1960〜70年代、薬物は精神の拡張に使われ、ロックスターたちは痩せこけていた。1980年代、薬物は肉体能力拡張のために使われ、ステロイドスポーツスターたちを生み出していく。しかし金メダルを剥奪されたり早死にしたり……。薬物による精神の覚醒と肉体の拡張は非合法の悪として徹底的に糾弾されることになる。しかし人間の能力拡張の夢が衰えたわけでない。薬物依存は悪だが、外部身体、外部知能、外部知覚、外部記憶への依存は悪と見なされていない。ネットワークが人間の知的能力を拡張させ、サイボーグ技術が肉体的能力を無限大に拡大させつつある。理想の肉体はサイボーグ化しはじめている。

そして、『攻殻機動隊』の話;

主人公、草薙素子は全身サイボーグである。「完全義体化」が意味するところは、彼女はきわめて重度の身体障害者だということである。幼い頃に全身を失い、ゴーストという人格が義体と呼ばれる人工身体を操る。彼女の脳は「電脳化」されている。脳にマイクロマシーンが埋め込まれネットと直接つながる状態となっているのだ。サイボーグ身体を使いこなす技量さえあれば、身障者のほうが五体満足な健常者よりはるかに優れた身体能力やコミュニケーション能力を持つことが可能になる。だから多くの人が進んで義体化したり電脳化をする。「攻殻機動隊」の描き出す世界は、障害と健常を隔てる境界が崩れはじめている21世紀の身体観をくっきりと映し出している。
「すべての人々はなんらかの障害を持っている」。そう語ったのはユニバーサルデザインの提唱者ロナルド・メイスである。1998年彼が急逝する10日前の講演で語ったこの認識は、草薙素子が体現する21世紀的身体と重なり合う。
こうして、人間の知的・身体的能力のテクノロジカルな拡張は障碍者と健常者の境界を曖昧化する――「こうした人間の能力拡張が本当に意味するところは都市やネットや機械への極度の依存であり、生身の人間のディスアビリティの増大である」。
ここでアマルティア・セン的な視点の導入が要請されるのだろう。境界は〈障碍者〉と〈健常者〉というよりも、テクノロジカルなsupport*1を享受し(そうするための社会的・経済的リソースを有し)自らのケイパビリティを向上させられる〈障碍者〉とそれができない〈障碍者〉との間に引かれることになるのだろうから。
また、

「能力拡張=ディスアビリティの増大」という流れに嫌悪感を抱く人たちは多いだろう。が、この流れはユビキタス社会以前から──特に産業革命以降ということではなく──人類が文明を形成し都市という外皮や文字という記録システムをつくった時から始まる大きな潮流であって、それを止めようと考えるのは時計の針が逆に回るのを期待するに等しい。こうした嫌悪感は技術の一人歩きを抑制するバランサーとして役割を持っているが、それ以上のものではない。
という指摘は、この問題がメディア論的問題であるということを示唆する。

*1:ここで、この語については、英語・仏蘭西語のあらゆる意味を参照すべし。