『ポスト産業社会の政治』

篠原一『ポスト産業社会の政治』(東京大学出版会、1982)

ポスト産業社会の政治 (1982年) (UP選書〈223〉)

ポスト産業社会の政治 (1982年) (UP選書〈223〉)

かなり前に多分「ポスト産業社会」というのに惹かれて、古本屋のワゴンから拾い上げた。長い間放置していたが、最近読了。

はじめに

Iポスト産業社会の政治構造
第1章 民主主義の質を考える
第2章 日本政治の心理と生理

II「地方の時代」の政治的諸相
第1章 政治的発展の中の地域
第2章 政治的諸潮流の中の地方自治
第3章 「地方の時代」の地方選挙

III政治過程の諸要素
第1章 政権構成としての連合問題
第2章 政党システムとサルトーリ
第3章 選挙を考える
第4章 政治変動への一視角

IV現代政治の担い手・市民と労働者
第1章 シティズンシップの構造
第2章 労働者の政治意識

むすび――小さな政府再考

1982年に出たこの本は1970年代後半から80年代初頭にかけての著者のテクストを集めたもの。「ポスト産業社会」であるが、この頃だと、やはりダニエル・ベルやアラン・トゥレーヌを代表的な論者とするのかも知れないが、ここでは「ポスト産業社会」という概念についての検討はなされておらず、「ポスト産業社会」とは何かという定義も打ち出されてはいない。「ポスト高度成長」=「低成長」社会といった緩い意味。
本書で扱われている主題も多岐に渉っているが、本書を読めば、1970年代後半から80年代初頭における政治においてどのようなイシューが問題になっていたのかがわかる。それらは30年近く前のことであり、現代政治を考える上で全くレリヴァンスを持たないのかというと、そうでもない。或る意味で、この時代は現在の原点ともいえる時代なのだ。サッチャーレーガンによって、現在〈ネオリベラリズム〉と呼ばれる経済政策がメジャーなものとしてブレイクした時代(当時は〈ネオリベラリズム〉という言葉はなく、「新保守主義」と呼ばれていた)。また、本書でも述べられているように、エコロジーやプライヴァシーといったイシューが政治問題として取り上げられたのはこの時代である。或いは、1981年初出の文章では、「憲法改正、有事立法、靖国神社への集団参拝、教科書への政治的介入、それに日米同盟の承認など、かなり急ピッチで政治は右にうごきつつある」(p.237)ともいわれている。現在グローバル化(或いはグローカル化)といわれている事態についてはどうか。曰く、

(略)高度産業国家の多くは、明らかに上方と下方へと分解のきざしを示している。もちろん、一九世紀以来つくり上げられてきた国民国家の力はつよく、国民国家の正統性そのものが全く疑われるようになったということはできない。むしろ正確には、国民国家の正統性が、政治における複数の正統性の中の一つになりつつあるというべきであろう。わが国の場合は、多国籍企業の圧力は別として、ECのような超国家的組織が存在していないので、この[超国家的統合と地方分権という]両極分解という現象は一般の国民にはなお理解されにくいかもしれないが、その中の一つである下方への分解は六〇年代後半以降、革新自治体の活躍によって次第に意識されるようになった。そしてこの傾向はこれからの数十年の間にますますつよめられていくだろう(pp.65-66)。
また、これは「ポスト産業社会」に関わることだが、

古典的階級対立は低開発国においてはもとより、高度産業社会においてもなくなりそうにはないが、それに加えて、新しい対立が生まれるとすれば、保革の対立は基準をかえて存在しつづけるであろう。高度産業国家においても、つねにアウトサイダーは存在する。たとえば、国家の高負担政策に対抗する動きは、西欧の各国でおこり、六〇年代末からそのために新しい政党の結成すらみられたほどであったが、これらの運動はまさに生活の安定を享受している人々の間からおこった。また「遠いデモクラシー」に反撥して分権と自治を求める人も、従来考えられてきたような反体制的な人々ではなく、体制の中にあって疎外感を感ずる新アウトサイダーである。そのほか、少数民族外国人労働者、および身体的、精神的障害者、さらには高等教育をうけながら、就職の機会をもちえない反体制的青年など、文字通りのアウトサイダーも数多く存在している。とくに外国人労働者をふくむ差別の問題は、新しい社会における構造的欠陥の問題としてますます大きな位置をしめるであろう。そして、このような新しい対立は、古典的イデオロギー対立がうすれはじめた丁度そのころから、広汎に噴出してきたのであった(pp.70-71)。
ところで、若年層の政治的保守化は目新しい問題ではなく、既に1970年代後半に新しい問題として論じられていた。

近年二十歳台の若者の間では保守化の傾向がつよい。彼らは豊かな社会に育ってきたこともあって社会の現状維持をのぞむと同時に、素朴な事大主義的精神構造をももっているように思われる。たとえば、世論調査によると、若者の間には自民党支持が多く、しかも彼らの中には元首相とか元大臣という人に投票すると答えたものが多かったといわれている。しかしこれらの若者を中心とした流動票は強い保守ではなく、いわば消極的保守派であり、雨がふったり、政治の不正が暴露されたりすると、棄権をしたり、あるいは投票をかえてしまう。このようにして自民党支持の中に、利益配分を中心に構成された堅い層とそれをとりまく青雲(sic.)状のものとがあり、議席予測をする場合には、その問題を十分考慮に入れなければいけなくなった(p.17)。
とというのと現在の状況を比較するとどうなるのか。
また、「小さな政府」について、著者が

ところで、小さな政府論というのは、政治をその「本来」の機能、つまり治安と防衛に特化し、他の支出をすべて切りおとすことを目標とするものである。ここでは軍隊と警察だけが正当性をもち、他はすべて市場の原理にまかされることになる。現代版の巨大夜警国家が目標なのである。第二臨調の論議の中で、軍事が聖域になり、その一方で日米同盟の名の下に軍拡がすすむというのはけっして矛盾ではなく、小さな政府論の論理的帰結にほかならない(p.239)。
と述べていることは現在でも充分にレリヴァンスを持つだろう。
因みに、「ポスト産業化」(「脱工業化」)について、別の本からメモをしておく――「工業化とは、社会が主に軽工業から重化学工業を中心とした産業発展段階から情報通信・金融・サービス産業を中心とした産業発展段階に移行することを指す」(関根政美『多文化主義社会の到来』朝日新聞社、2000、p.15)。また、「工業化」、「経済成長」の帰結として、

(略)貧困な時代とは異なる社会意識や生活意識が芽生えはじめる。とくに注目すべきは物質的な欲望に満足した国民が増え、精神的な充足や快適な生活、すなわち量よりは質のを追求する脱物質主義を重視する価値意識が強まることである。こうした動きが世界的に拡大するのが現代である。脱物質主義の拡散は、反公害、自然保護意識や反経済成長至上主義などを人々のあいだに強め、生活環境の向上意欲を刺激する上に、社会参加、政治参加意欲・人権意識なども強化する。とくに人権意識の強化は、移民・難民、外国人労働者、あるいは先住民の文化承認要求への国民の理解を深め、結果として、国民の間に文化的多様性への寛容性をも育てることになる(ibid.)。
但し、これは〈可能性〉にすぎないのだろう。
多文化主義社会の到来 (朝日選書)

多文化主義社会の到来 (朝日選書)