ヴェジタリアンな動機

私はヴェジタリアンではない。


ベジタリアンというと、そういう伝統とか宗教とか、近代以前の価値観への、あるいは本質への回帰みたいなものを考えがちだが、いま多くの人たちをベジタリアンにさせているものというのは、近現代の、この社会の極端なあり方に原因があるのだと思う。

肉や魚を乱獲し、大量生産し、大量消費し、生命を商品化しという、そうした社会のあり方に対するひとつの反応として、ベジタリアンという生き方が、いわば肉体的に選択されて生じてくる。

その選択は、見ようによっては、たしかにひとつの「病理」に近い。だが、その病理は、この社会のなかでぼくたち「非ベジタリアン」が平然と肉や魚を大量消費しているという、より度し難い病理の、ネガのようなものではないか。

重要なのは、「どちらがより自然か」という問いではなく、「自然」な生や欲望がすでに存在しないという土台のうえに、ベジタリアンという身体的な選択(反応)が出てきているということだと思う。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070608/p1

勿論、これはヴェジタリアンの人の言ではなく、ヴェジタリアンの人についての解釈である。しかし、そのような解釈というのもありうるだろうなとは思う。
「大量生産」の世界においては肉や魚は栄養素に還元され、生命の生々しさは隠蔽される。消費においても、それはパッケージとかに隠されてしまう。そうすると、肉を食べていても、私たちは動物の死体を食べているということを意識しない。しかし、そのような隠蔽にも拘わらず、死体を食べているという事実を感じ取ってしまい、それを忌避するという人がいても不思議ではない。また、逆にその生々しさを保ったまま、生命をいただくということもあるのだろうと思う。だからヴェジタリアンと非ヴェジタリアンとは単純に対立しているというよりは生命を隠蔽し、生命(の痕跡)を栄養素やらに還元してしまうような傾向と(向きは別であるにせよ)相対しているということもできるだろう。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070614/p2へのblackpaw*1という人のコメント;

NYはベジタリアンにとってはとても住みやすい場所ですが、日本やアジアの国々では特に、レストランとかで、あるメニューを「野菜炒め、野菜だけです」と言われて注文したけど実はひき肉が入っている、みたいなことがよくあります。それを笑い話にしちゃうんですよね。。。なんか、可愛いよねぇ、みたいな。
「日本」はともかく(大陸にせよ台湾にせよ)中国語圏では精進料理(素菜)は料理のジャンルとして既に確立しており、少し大きな都市では精進料理のレストランは必ず何軒かはあり(寺が収益事業としてやっていることが多い)、その意味では「ベジタリアンにとってはとても住みやすい場所」である筈だ。また、ヴェジタリアンな惣菜やお菓子はふつうのスーパーでも買える。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061114/1163506727