『悪役レスラーは笑う』

 

森達也『悪役レスラーは笑う−−「卑劣なジャップ」グレート東郷』(岩波新書、2005)を読了する。
この本は或る意味で〈挫折〉の記録といえるだろう。グレート東郷というプロレスラーの正体を突き止めようと、著者はグレート小鹿、ライターの流智美マサ斎藤上田馬之助桜井康雄(元『東京新聞』記者)、吉村義雄(力道山の元秘書)、グレート草津ミスター高橋といった人々にインタヴューする。そのきっかけは日系米国人であるグレート東郷の母親が中国人だとする記事を流智美氏が『週刊プロレス』に書いたことだ。しかし、インタヴューを重ねていっても、彼の母親が中国系だという確証は得られない。のみならず、グレート草津グレート東郷が「韓国籍」だということを本人から聞いたと言い出す(pp.200-202)。さらに、韓国人である大木金太郎(金一)*1グレート東郷が中国系であることも韓国系であることも否定する(p.224)。また、ミスター高橋グレート東郷が沖縄系だという(p.236)。米国のセンサスの資料では、日本人的な名前の父母から生まれたことになってはいる(p.218、220)。しかし、それが正しいという確証もない(p.221)。そして、ついに「あとがき」で著者は、


ただし血みどろになりながら笑い続けるグレート東郷は、僕より役者がはるかに上だった。悔しいがここは負けを認めなければならない(p.243)。
と述べる。
謎に包まれているのは、その民族的出自だけではない。1973年に亡くなった後、グレート東郷の「家族と財産は忽然と姿を消してしまった」(p.174)。
「母国であるアメリカでは、卑劣で悪のかぎりを尽くす大ヒール(悪役)として国中の憎悪を浴び、そして日本のリングでは、世紀の悪玉として暴れまわった」(p.10)、「リングの上だろうが下だろうが、とにかく良い評判を聞かない」、「リング上では徹底して卑劣な悪役を演じ、そしてリング下では、やはり徹底して卑劣な拝金主義者のイメージ」(p.14)をつくり上げ、「アメリカでは「卑劣なジャップ」として、そして日本では、「売国奴」や「守銭奴」などと呼称され、二つの国で憎悪を一身に浴びながら年老い死んでいったグレート東郷」(ibid.)は、日本のプロレスの始祖である力道山に一目置かれ、敬意を表され、「全幅の信頼を置」(p.61)かれていた。著者はこうした尊敬や信頼はグレート東郷のビジネス上の才能に還元されるものではないと感じる。著者が目を向けるのは、(現在では周知の事実と化している)力道山の民族的な出自である。生前力道山は徹底的に〈日本人〉を演じており、彼が朝鮮出身であることに関しては徹底的な箝口令が布かれていた。著者は、力道山がその死の前年に韓国を訪問したときのエピソードを書く(pp.228-229)。当時の「力道山歓迎委員会」の一員だった金甲煥という人が伝えるところによれば、力道山は「板門店ではシルクのシャツまで脱いで、オモニー(お母さん)、ヒョンニーム(お兄さん)って声のかぎり叫んだ」(p.229)。しかし、夫人によれば、力道山瑞西に憧れ、瑞西移住を真剣に考えていた(ibid.)。著者曰く、

力道山は日本に永住する気はなかった。そして三八度線で声を限りに叫びながらも、祖国に戻るつもりはなかった。二つの国に縛られながら、そして二つの国に恋々としながらも、力道山は同時に、その磁力から逃れようと、必死にもがきつづけていた(ibid.)。
力道山グレート東郷が共有していたのは、こうしたネーションというものに対する態度であったのかもしれない。
さて、本書の隠れたもう1人の主役はTVである−−

プロレスとテレビジョンは日本において、二卵性双生児として誕生した。生まれた時期はほぼ同じ、顔かたちは微妙に違うが、虚実の皮膜が薄いという遺伝子は共通している。プロレスは街頭テレビによって急速に普及し、そしてテレビも、プロレス人気で急速に認知された(p.98)。
また、「故郷喪失者である力道山と東郷は、プロレスというフェイクの究極を足場にして、大和魂というもうひとつのフェイクを偽装しながら、結果としてはテレビという最大のフェイクが発展することに、大きな貢献を果たしてきた」(p.243)。