「無関心」という反抗、その他

承前*1

例の「尾崎豊」問題なのだが、新しい展開としてhttp://d.hatena.ne.jp/sean97/20070516がある。曰く、「やっぱ彼らは彼らなりに反抗してるじゃん」、「つまり、「無関心」という反抗」。そうなのかなと思う。度々名前を出して恐縮だけれど、香山リカが少し前に言っていた(今はわからない)「抑圧」から「乖離」へというのもそうなのかなと思う。但し、http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20070516/1179315805でも述べられているように、それ自体としては目新しいものではないと思う。「尾崎豊」は1980年代において(少なくとも20代以上にとっては)反時代的だったし、1990年代の〈尾崎熱〉というのは多分に〈軽佻浮薄な80年代〉へのバックラッシュだった。若者が「無関心」だ云々というのは1980年代、もっと遡れば1970年代からずっと言われ続けてきたことなのだ。政治的な言説にとどまらず、精神医学の言説でも心理学の言説でも、ポスト〈団塊の世代〉をアパシーだとか無気力だとかという鍵言葉を使って記述したものはそれこそ枚挙の暇がないくらいあると思う。しかし、「すなふきん」さんが


現代社会においては「反抗」そのものがすでに(進歩的な人たちも巻き込んだ形での)システムに織り込み済みという言い方はポストモダン的発想の洗礼を受けた我々新人類世代にはなにやら素直に理解できる話でもあり、「闘争」ならぬ「逃走」に積極的意義を見出す考え方もあろうが、かといって現実の若者がそんな「思想」を自覚しているとは思えない。しかし結果として相手にやる気をなくさせる効果はもたらしているわけだ。
というとき、ちょっと違和感を感じるのもたしかだ。また、現在の若い衆の「「無関心」という反抗」に対しては、「もちろん、そうやって「寝ててくれれば」、それこそ権力者の思う壺ではあるのですが」*2という或る意味では左翼模範解答的な危惧とは別の違和感がある。
「すなふきん」さんが(浅田彰が言っていた)「逃走」と「「無関心」という反抗」を同一視していることへの違和感。それって、浅田さんとかに、或いは私たちの世代に対して浴びせていたバッシングと論理としては同じじゃん。そう思ってしまうのだ。その人たちにとっては、選択肢は3つあるということになる。体制(素直に服従)と反体制(自覚的な反抗=叛乱?)と無関心(しかし、それは体制の「思う壺」であり、それを補完するものでしかない)。それだけじゃないだろうというのが「逃走」論の眼目だったんじゃないだろうか。デリダにしてもドゥルーズにしてもフーコーにしても、従来の粗雑な二元論或いは三元論とは違う地平を開いているぞということで、飛びついたんじゃないか。また、全共闘世代の人だって、わかっている人はわかっていたのであって、だからこそ、恩師のH先生は尾崎の歌っていることというのは俺たちの世代にとっては終わっているといったわけだ。また、「「無関心」という反抗」に対する違和感というのは何よりも面白いの?ということだろう。そうではなくて、素直に服従するのでもなくて、素朴に反抗するのでもなくて、「アーアー聞こえなーい」でもなくて、そのどれをも裏切ってしまうこと。「トラキアの娘」の仕草*3。或いは、「パパ、見るとミルクは同じなの?」*4とか。
ところで、伝統としてのロックというのは、反抗もその不可避的な挫折も、さらには「「無関心」という反抗」も既に全て織り込んだものとして存立している。例えば、The Who(というかそれを映画化したケン・ラッセルの)『トミー』とか。
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その意味では、例の『朝日』の記者には〈伝統〉にコミットしろとはいいたくなる*5。1980年代というのは既に70年代に「1969年以来、当店では精神は置いてございません(There’s no spirit since 1969.)」(Eagles「加州賓館(Hotel California)」)とか、「三下サヨクが体制に媚びて大出世かよ(Did you exchange a walk-on part of the war for a lead role in a cage?)」(Pink Floyd 「あなたがここにいてほしい」)とか歌われてしまった後だったのだ。
Hotel California

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Wish You Were Here

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