字義性(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/fuuuuuuun/20070124/p1を読んで、字義性(literalness)についてつらつら考える。字義的/比喩的という対立は究極的には成立しない。全ての言語記号の恣意性というところに行き着いてしまうからだ。また、オースティン(『言語と行為』)

言語と行為

言語と行為

いうところの「事実確認的(constative)」/「行為遂行的(performative)」という対立も絶対的なものではないだろう。発生的に行為遂行的な発話が先行しているというだけでなく、純粋に事実確認的な発話というのはかなり稀であるからだ。さらに、こんにちはさようならの字義的な意味って何? これらを字義的に英語に翻訳せよと言ってみる。


Today is.
If it is so.


不思議というか何というか、これでは字義的だとは感じられない。これらの言葉は字義的にではなく、派生的であるはずの行為遂行的発話と解釈して、


Hello!
Good bye.


と訳してこそ、私たちは字義的なものだと感じられる。
字義的とは何か。これについては、先取り的に示してしまったかも知れない。ベタな言い方だと、辞書に載っている意味ということになるか。或いは、私たちが自然に感じる意味、意味であるといちいち意識しないような意味。それから逸脱するような使い方に、意味を考えざるを得ないような使い方に遭遇してしまったときに、派生的だとか、比喩的だとか、行為遂行的だとか、さらには誤用だとかいうのだろう。問題は逸脱である。逸脱は必然的に生起する。言語は有限の手段を使って無限(すなわち主観的・客観的現実)を表現しようとするからである。だから、どうしても足りないところ、余るところが出てくる。また、未知のものに遭遇したときは、手持ちのあり合わせの言葉によって何とか誤魔化さざるを得ない。しかし、そのような逸脱も反復され、馴染んでしまい、社会的にも共有されて、遂には辞書にまで載るようになれば、字義的となる。その意味では、「骨が折れる仕事」*1だって字義的だ(これは脱構築者[deconstructer]がよく使う手口だが)元々の語源に近いという意味で字義的な用法の方が寧ろ奇妙に見えてくる。
唐突ではあるが、スクリッティ・ポリッティの”Absolute”の歌詞、特に


Holy girl you kiss away the meaning of the working day
For love / ooh love you ...
Where the words are worn away we live to love another day
Where the words are hard 'n' fast we talk of nothing new but the past

Where the words are vodka clear forgetfulness has brought us near
Absolute a principal to make your heart invincible

To love oh to love to love
http://www.chrislee.tv/scritti/word.html

の部分が昔からよくわからなかったということを思い出す。
また、”Now I know to love you is not to know you”から始まる”A Little Knowledge”;

Ooh a little knowledge is so exciting
You became a part of me oh and the world that we knew
を挟んで、

Here's a verse for nothing an introduction
To the way the world will be now we're apart and alone
Mustn't be unhappy when you remember
Lovers never lose each other oh such a lot to be learned
という教訓で終わる。
Cupid & Psyche 85

Cupid & Psyche 85


曖昧さがなくて泰斗にタイトに意味の詰まった世界は息苦しいということを言おうと思っていたのだが、その論点は何処へ行ったのやら。

ところで、『現代思想』の1987年5月号と12月号に掲載されたデリダの「隠喩の退−引」というテクストの翻訳のスタイルに突っ込んでいるテクストを見つける*2