『西洋哲学史――古代から中世へ』

熊野純彦氏の『西洋哲学史――古代から中世へ』(岩波新書)を暫く前に読了する。

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書)

先ずは目次を書き出してみる;


まえがき
凡例


第1章 哲学の始原へ
第2章 ハルモニア
第3章 存在の思考へ
第4章 四大と原子論
第5章 知者と愛知者
第6章 イデアと世界
第7章 自然のロゴス
第8章 生と死の技法
第9章 古代の懐疑論
第10章 一者の思考へ
第11章 神という真理
第12章 一、善、永遠
第13章 神性への道程
第14章 哲学と神学と
第15章 神の絶対性へ

あとがき


関連略年表
邦語文献一覧
人名索引 

「まえがき」によると、著者は本書を3つの点に留意しつつ書いたという;

ひとつは、それぞれの哲学者の思考がおそらくはそこから出発した経験のかたちを、現在の私たちにも追体験可能なしかたで再構成すること、もうひとつは、ただたんに思考の結果だけをならべるのを避けて、哲学者の思考のすじみちをできるだけ論理的に跡づけること、第三に、個々の哲学者自身のテクストあるいは資料となるテクストを、なるべくきちんと引用しておくこと、です(pp.ii-iii)。
そのように配慮された本書を読み進めるに従って、読者は〈西洋哲学〉が取憑かれ続けた(ている)問題、存在(有ること、在ること)、真理、善といったものを、何時の間にか体得していくことになるのだろう。また、諸処に近現代の哲学者の名前が言及され、古代・中世が私たちと繋がっている過去であることを気づかせる。しかし、本書を読むべきなのは哲学の初学者にとどまらないだろう。私たちが(ステレオタイプ的に)知っていてそのまま見過ごしてしまうような落とし穴に気づかせてくれる箇所もある。例えば、プラトンについて;

プラトンイデアについて語ったが、イデア論を展開したわけではない。世にいうイデア論はかえって、アリストテレスによるその批判から、プラトンに帰せられた立場にすぎない。プラトンの哲学はいわゆるイデア論に尽きるわけでもない。プラトンはむしろアリストテレスに先だって、イデア論に対する批判を展開している(p.80)。
これを前提として、後の「アカデメイア派」の「懐疑論への転回」(pp.139-140)が語られる。
多分第1の留意点と関係あるのだろうけれど、特に本書の最初の方では地の文で著者の美しい散文が綴られている;

高台にのぼれば、視界の全面に海原がひろがる。空の蒼さを映して、水はどこまでも青く、けれどもふと青空のほうこそが、かえって海の色を移しているように思われてくる。
下方では、あわ立つ波があくことなく海岸をあらう。遥かな水平線上では、大海と大空とが番い、水面とおぼしき境界はあわくかすみがかって、空と海のさかいをあいまいにする。風が吹き、雲が白くかたちをあらわして、やがて大地に雨を降りそそぐとき、驟雨すら丘によせる波頭のように感じられる。海が大地を侵し、地は大河に浮かぶちいさな陸地のようだ。
ホメロスによれば、オケアノス(海)は大地をとりかこんで流れる大河であり、すべての水のみなもとである。大海はまた神々がそこから生まれたふるさとである。タレスが「水」という一語を発し、のちに「哲学の祖」と呼ばれることになったのは、まちがいなく、ギリシア世界のそうした風景と、その風土が生みだした神話を背景にしてのことである(p.2)。
また、タレスを巡って、

たとえば、春につぼみが芽吹き、夏には葉のみどりが盛りを迎えて、秋とともに年老い、冬が訪れるうちに、みどりは死に絶えて、まためぐりくる新たな春に、いのちはふたたび甦る。植物ばかりではない。動物もまた生まれ、成長して、やがては死を迎える。すべては移ろい、変わってゆく。とどまるものはなにもない、かにみえる。
とはいえ、誕生し、成長して、老いて死を迎えることの繰りかえしそのもの、動物や植物の成長や繁茂であれ、衰退や枯死であれ、そのようにことがらが反復してゆく、循環それ自身、ひいては季節の移りかわりや太陽の経年変化、天体の運動それ自体は移ろうものではない。繰りかえしは繰りかえされ、反復は反復し、循環自身は、いつまでも循環する。今年のみのりの季節が過ぎ去っても、一年ののちに麦畑はまた一面に収穫の時節を迎える。母山羊が年老いて、もはや仔をはらむことがなく、乳を出すこともなくなったときには、そのむすめが新たないのちを宿すことだろう。成長と繁殖は繰りかえされる。自然の生成と変化をつらぬき、ひとの世の移ろいを無限に超えて繰りかえされ、反復し、あるいは循環する。
植物や動物の誕生と成長、死滅に目を向けるなら、このような反復と循環はそれ自身、水の存在と深くかかわっているように思われる。植物は水によって育てられ、水を失うことで動物は老い、植物は死んでゆく。老いた人間の男女は、体内の水分を喪失することで、ひとまわりちいさくなり、荒廃した森の木々は、水気を亡くして枯死している。水は、たしかに、「それらいっさいの存在者の構成要素(ストイケイア)」である。――そればかりではない。水が、繰りかえし循環することが、おそらくは、反復と循環のいわば「範型(パラディグマ)」である。
ミレトスの港町は地中海に開けていた。来る日も来る日も、昼も夜も、海は波をつくり、波をよせる。ひとがつくり上げたものなど、まだほんのささやかであった時代にも、海は無限に波浪をあげて、際限もなく波頭をつくりつづける。一瞬一瞬の波のかたちは、海が生みだす、刹那の様相であると同時に、それが海そのものでもある。青い海はまた、白い雲をつくり上げ、雨となって陸地をうるおす。海は、ときにまた風とともに荒れくるい、高い波がひとのつくりだしたものを呑みつくす。街並みをつくる白壁が崩れおち、街そのものが廃墟となったとしても、海は月から引かれ、陸に惹かれる。反復はちいさな反復を無限にうちにふくんで、それ自身として循環し、おわることがない。世の移ろいと、自然の生成変化は、すべて海のなかにある。滅びてゆくものを超えて、滅びてはゆかないもの、死すべき者のかなたに在りつづけるものへの感覚がある。そこには、果てのないもの、無限なものへの視線がつらぬかれ、世界のとらえがたさに、思わず息を呑む感覚が脈うっている(pp.7-8)。
また、

深く眠っているとき、ひとは、じぶんがじぶんであることを知らない。浅い眠りのなかで、ひとはまた、さまざまな夢を見る。夢見る私はところで、目覚めている私と、どこまでおなじ「私」なのだろうか。思いもかけない夢を見るとき、私はじぶんのなかに折りかさなっている、さまざまな「私」に気づく。私の内部には、多くの可能な私が織りこまれているのである。
私は、じぶんが生まれたことを憶えていない。私はまた、私の死のそのさきになにがおこるのかを知ることができない。いま生きている私のなかに、私の見知らぬ時間が繰りこまれ、私の現在を成立させている。人間は「輪廻」を経めぐって、現在を存在しているという発想に、なにほどかのリアリティがあるとすれば、それは、この私のうちに、さまざまな可能性の糸が撚りあわされ、私の現在がそれ自体、遥かな時間と空間の交点でありうるからである(p.16)。
 
このような文が最初の方にだけ集中しているのは残念といえば残念。
ところで、この本が丸山眞男の名前とともに一旦閉じられている(p.254)。