「弱者」と呼んではならない


「強者は互助が上手く弱者は下手」というのは、「強者は似通っているが、弱者は様々」なためなのは間違いないと思う。でももうちょっと正確に言えば、強者は特定の規範に自分を適合させ成功しているが、弱者は規範への適合に失敗しているってことだと思う。強者は世間的によいとされる価値観に沿って行動してうまく行ってるわけで、結局似通ってるのは当然。でも弱者の規範に適合しない状態ってのは様々にありうるわけでバラバラなのは当然。

だから弱者が繋がるには「規範に乗れない」で繋がるっていうしかないと思うんだけど、これだと浅く広くのゆるコミュになんのか。「規範に乗れなくてもいいじゃん」っていう一時的な安心できる居場所を用意するって程度の。うーん。
http://d.hatena.ne.jp/dasaitama_osamu/20070505/1178323533

「弱者」とか「強者」という言葉遣いについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176606885でも仄めかしたように、世間で通用している用法には従いたくない。
それはともかくとして、偶々きわめて不利な境遇に身を置いている人というのはいる。そのような人は必要性=必然性(necessity)を強く意識せざるをえない。例えば、先ず生き延びなければいけないという必要性=必然性(necessity)。http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070502オスカー・ワイルドを引きながら、

だが、なぜ「貧乏人は金よりほか何も考えることができない」のか。それは、金が社会的な必要品(ニーズ)にアクセスする能力や権利を代表しているからであり、貧乏人が何かをしようとするたびに、「金がない」という障害にぶつかって断念を余儀なくされるからである。貧乏人は、金がないために、社会へアクセスする能力や範囲を著しく制限される。そのために恥をかき、屈辱を味わい、面目を失う。《それが貧乏であることの惨めさなのだ。》
と述べられている。逆に、必要性=必然性(necessity)を強く意識しないでも済む余裕のある人もいる。そういうことだ。「強者は互助が上手く弱者は下手」というのは必要性=必然性(necessity)を強く意識しないで済むかどうかという問題である。また、「強者は似通っているが、弱者は様々」というのは逆で、必要性=必然性(necessity)に強く囚われているという限りで、その在り方は著しい画一性を呈してくる。個別の苦悩を悩む余裕はない。
話を変えて、偶々きわめて不利な境遇に身を置いている人を「弱者」と呼ぶべきではない。それは何よりも、そういうことによって、そのような人を複数回殺すことになるからだ。「弱者」と呼ぶこと、それはそのような人たちから発言権を、責任性を、さらには人格を剥奪してしまうだろう。さらに、重苦しい必要性=必然性(necessity)に加えて、重苦しいルサンティマンをこびりつかせてしまう。それはそのような人にとっては二重の抹殺ではないか。偶々きわめて不利な境遇に身を置いている人にとって必要なのはempowermentであって、それ以上でもそれ以下でもない。同情するなら金をくれ!
問題なのは、「貧乏人」ならぬ「ビンボー人」*1。こちらの方こそ、「弱者」というのが妥当だろう。偶々相対的に有利な境遇に身を置いてはいても、ルサンティマンに緊縛されている限り、「弱者」である。また複雑なのは、「弱者」が「弱者」であるのは自らの「弱者」性を選択的に否認することにおいてだということだ。この手の「弱者」は自分が「弱者」だとは思っておらず、自分よりも不利な境遇に身を置く人を「弱者」として見下してもいることだろう。だから、自他を「弱者」としてレイベリングしないことともに、自己に「弱者」性が内在しているということを否認しないという一見すると矛盾したことが要請されることになる。ニーチェの「超人」はひとつの理想であって、ツァラトストラだって、常に自らのルサンティマンを振り払わなければならない。それが停止した瞬間に「弱者」に転落してしまう。
さて、「強者は特定の規範に自分を適合させ成功しているが、弱者は規範への適合に失敗している」ということ。これについては、「規範」って何処にあるんだ? お前が勝手に脳内で捏造して勝手に内面化しているだけだ!と一喝することも可能だろう。それはともかくとして、気になるのは、「弱者」の言説において欲望が殆ど常に否定形でしか語られないということだ。