霊的危機或いは狂気

樫尾直樹氏が「オウム真理教事件」について、


現在における、一連のオウム真理教の事件への見解は、スピリチュアリティ・クライシス、霊的危機である。
物理的身体や心を超えてある、魂の次元の実在と重要性に気づいた人たちは、精神世界やニューエイジ、あるいは教団といったスピリチュアルな精神文化資源を提供する場に接する。この世界は玉石混交だし、世俗からの充分な理解があるわけではないので、このアプローチ自体きわめて困難なものである。とはいえ、ともあれ気づいた人たちはそうした世界に接近する。この世俗世界とスピリチュアルな世界の非対称性は、そうした魂の求道者を精神的心理的社会的にきわめて不安定な状態にするか、高踏的でエゴイスティックなエリート主義にするか、である。純粋な個人的探求はほとんどの人には無理なので、実践は集団的なものになる。ここにある種の共同性が生まれ、極端な不安定さは極端な排他主義へと変容する。世界からの疎外は世界の支配へ転回する。
http://my.spinavi.net/kashio/index.php?itemid=932
と纏めているのを見つける。
スピリチュアリティ」というと、何だか綺麗事のように響く。しかし、それは違うだろう。世俗性を超えて拡がる領野。そこには、理性によっても統御されず、或いは功利的な計算によって釣ることもできない混沌とした、日常的な態度においてはおぞましい何物かとしてしか経験されないようなものが拡がっている筈だ。だから、「スピリチュアリティ」の探求というのはおぞましいものの探求でもある。
といいつつ、ヴァージニア工科大学の事件*1を巡って書かれたGeheimagentさんの「狂気、あるいは原因不明なものへのアレルギー」*2を思い出した。曰く、

 「何故、このような狂気じみた事件が起こってしまったのか?」――このような問いを前にして、科学的で合理的な社会は上手く受け答えすることが出来ない。犯人のストーカー気質や富裕層に疎外された(?)生活……といった事件の背景が明るみに出たとしても、狂気によって社会にぽっかり開けられた穴は修復することはできない。というよりも、むしろ、そのような事実は余計に「何故」という疑問を膨らませてしまう可能性さえある。

 「何故」から出発した社会は、究明し、改善すべき決定的な原因の帰属をどこに置いていいものか、社会は大いに戸惑う――悪かったのは、犯人の人格なのか、犯人を疎外した富裕層なのか、それとも銃社会なのか……導き出された原因はおよそ全てが原因のようであり、また原因のようでない。結局のところ、「狂気によってなされた事件」と見なされた事件の原因は「狂気によるものである」という同語反復に社会はとどまり(それは証明の不可能性に対する諦めでもある)、残された傷痕が忘却されるのを待つしかない。

また、

きっと誰かが「このような悲惨な事件が二度と起こらないように……」と神妙な面持ちで、そして死者の冥福を祈りながら言うだろう。でも、きっとそのような悲惨な、よく分からない、狂気じみた事件はこれからも度々起こる(だろう。程度の差はあれど)。そして、その度に社会は開けられた穴をせっせと埋めなおし、そしてまた忘却へと向かうのだろう。
多分「忘却」に期待するのは無駄だろう。「忘却」しようと敢えて意図的に引き受けるのでなければ。理性は記憶の保護監察を引き受けるのか。「忘却」それ自体が忘却される。ということは、記憶はいつでもフラッシュ・バックしうるということ。別の言葉で言えば、あなたが記憶を所有しているのではなく、記憶があなたを所有しているのだということになる。この「忘却」或いは「忘却」の忘却は「狂気」についても当嵌まりそうだ。さらにこの場合、〈他者化〉という操作が絡んでいる。「狂気」を特定のカテゴリーに帰属させることによって自分は安心してばっくれられると思い込むこと*3。しかし、それも無駄だろう。だとしたら、「忘却」を忘却したり〈他者化〉したりするよりは、寧ろそれを積極的に抱きしめたり、それと戯れたりする方がいいのかも知れない。
「狂気」とか「スピリチュアリティ」に属する領域からの電波を全く受信しないという幸運な人もいるだろう。しかし、その幸福な鈍感さが「忘却」の忘却によるものだとしたら?