ソムリエは難しい


語られる人生や体験というものは必然的に抽象化できる範囲に留まっています。逆に、その範囲に留まる人生はメタ化もゲーム化も容易となる。

そして、その人がどういうインターフェイス、メディア上で人生や生活を送るかによって、その体験がメタ化しやすいかどうかも決まってくるわけです。

言葉で描かれる人生は言葉で描くことのできる範囲を超えることはない。

システムで描かれる体験はシステムで描くことのできる範囲を超えることはない。

抽象化というのは切り捨てるということ。

つまり情報というものは常に何かを切り捨てて成立しているということであり、それを踏まえておけばその取り扱い方もなんとなく分かってくるような気がします。

思うに、人生を面白くする一つの方法は、「抽象化できない体験」をすることです。

科学には再現性が必要だけど、人生は時に再現性がない方が面白い。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20070306

これを読んで、李晟台氏の『日常という審級』の中の

類型化されるものは、類型化によって捉えきれない何かを指し示すのであり、その意味では類型化とは「知られる」の産出ではあるが、つねに「知られざる」に促され=否定されるような産出であるといわねばならない。そして、類型化に伴う「否定の契機」が当の類型化の境界を浮き彫りにし、まさにその点において、産出された類型にリアリティを与える(p.87)。
という一節を思い出した。昨年頂いたこの本を今頃になって読んでいるのだが、特にG. H. ミードを扱った第4章と第5章がことのほか難解で、読むのに難渋している。それはともかくとして、上に引用した文章で使われている「体験」という言葉と意味を同じくするかどうかは分からないが、取り敢えず「体験(lived experience)」を端的に身を曝すことという意味に理解する。それに対して、経験(experience)は事後的・事前的に意味づけられた、(上の文章の言葉で言うと)「抽象化」された「体験」であるとしておく。
ミニマムな「抽象化」或いは「類型化」がなければ、実は「体験」だって「体験」として意識に留められるということはできないように思う。以下で述べることを先取りしてしまうかも知れないが、「体験」は経験の中の割り切れない残余、濁りとして見いだされるということになるか。また、私たちは能動的に「抽象化」「類型化」しようとするというよりも、基本的には受動的に「抽象化」「類型化」されたものとして*1「体験」でさえも(「体験」だからこそ)「体験」しているということになる。
上でいう「抽象化できない体験」とはどんな「体験」なのか。李晟台氏の論と絡めれば、「類型化」と同時に指示される「類型化によって捉えきれない何か」が超過している「体験」だといえよう。こうだといっても言い尽くされない感じ。だからこそ、「抽象化」・「類型化」のディヴァイスである言葉を必死になって探し回る、時には新たに捏造することを余儀なくされる。そのような「体験」。「抽象化できない体験」が「人生を面白くする」のはそのような意味においてなのではないか。
また、そのような「抽象化できない体験」は同時に絶望の経験でもあろう。どんなに言葉を尽くしてもその「体験」を意味づけることはできないという途方もなさ。或いは、振り返ってみて、自分の「抽象化」「類型化」のあまりの貧しさに対して抱く嫌悪感。あのセックスは、あの料理は、あの映画は、あの小説はetc.こんなもんじゃなかったんだよ。
だから、「抽象化」それ自体というよりも「抽象化」の仕方が問題なのだと思う。また、その一方で、私たちは自らの「抽象化」の貧しさに自足してしまうことも屡々である。こんなもんじゃないに対して、そんなもんんだ。その貧しさへの自足のメカニズムはどうなっているのか。
こういうことを考えていると、ソムリエの人たちは偉いなと思ってしまうのだけれど、ソムリエの言説戦略というのは*2、他の領野へと水平に逃げていくということなのだな。

*1:勿論、その出所を問う必要はあるだろう。天から降ってきたものではないことはたしかだ。

*2:ソムリエの言説分析をやっている人とかいるんですか。