「専門知への不信」、それともただの無関心?

http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20070314/p1


http://www.ichigobbs.net/cgi/15bbs/economy/1183/383の議論を引用している。
〈危機〉は依然継続しているということだ。危機が常態であるような時代を近代というなら、それは当然の話かもしれない。
ただ、ここで述べられているようなものは「不信」と呼ぶに値するのか。これは真剣に考えられるべきことだと思う。「専門知への不信」が存在するというのは別に悪いことではなく、とても健全なことだ。日常生活者から見れば、何であれ「専門知」は奇異なものだからだ。そこで批判とか突っ込みが行われる。これは哲学的思惟や歴史学的遡行へと深化される可能性がある。しかし、ここで言われているのはそんな大層なものではなく、たんにごたごた理屈捏ねているのってうざいねという程度のことではないのか。「不信」というよりも、「専門知」は自らの生の状況にはレリヴァンスを持たないものとして関心から外されているということになる。「不信」があるとすれば、具体と抽象の間を往ったり来たりするという振る舞いそれ自体に対してなのではないか。かくして、「専門知」は無傷のまま外部から切り離されて、内輪では業績とやらが生産され続ける。また、「専門知」と日常生活の間に横たわる空隙は(一見すると哲学っぽい)人生論やら疑似科学が埋め立てるということになる。ただ、その場合でも例えば何たら大学教授といった肩書きは重要な付加価値として機能する。Orz.