生まれること――私と連帯の基礎として

小田亮氏がアルフォンソ・リンギスの『汝の敵を愛せ』

汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions

汝の敵を愛せ:Dangerous Emotions

からの引用を行っている*1。「個の代替不可能性」と「社会的連帯」を結ぶ「根源的な偶然性」を巡って。
引用されているのは『汝の敵を愛せ』の「イノセンス」という章。

新生児やみどり児はなんという驚異であろうか! きみの誕生は、責任をとらなければならない過去の重荷を背負っておらず、なんと軽やかなことか! あらゆる犯罪、あらゆる非道や悪行をともなう過去のなかで、きみに関係のあるものは何もない(pp.168-169)。
という一節があるように、この章での主なテーマは「行為」というものが存立する条件としての「連続の中断」である。それはともかくとして、小田氏が引用していない部分まで抜き出しておこう;

きみはリーノーの病院で生まれた、きみはリオ郊外の名もないスラム街のある汚い小屋のなかで生まれた。きみの存在は、いかにかけがいのないものだろうか! 偶然にある女とある男が出会い――地球の二十五億の男のなかから、偶然にその男と出会い、思いもかけず男は女を気に入り女は男を気に入り、二人は服を脱いで交接し、そして、ヴァギナのなかへと繰り返し射出される精子のなかから、ひとつが偶然にこの卵子と出会い、そのなかに吸収されたのだ。百万の偶然の出会いが作り上げる人生行路の曲がり角を、どこか少しでも違ったふうに曲がっていれば、生まれたのはきみではなく誰か別の人物だっただろう。
宇宙の原子の数は、十の七十六乗だと言われている。しかし、人間のDNA分子の可能な組み合わせの数は十の二十四億乗である。きみが存在する確率は、十の二十四億乗分の一なのだ。生まれたのがきみだったというのは、偶然という以前に、まったくありそうにもないことなのだ。
自分の生まれる以前の時を振り返ってみれば、きみは自分が完全に不在で、どこにもプログラムされておらず、潜在的にであれどこにも存在していない、そんな深淵を覗きこむことになる。きみの足下にも、きみの背後にも、きみを予見し、きみを必要とし、きみを求めていたものはない。きみは自らの背後にこの虚空を感じる。相互連絡装置や伝動装置の上に浮かぶ鬼火として、きみはこの世に生まれでた。自分を取り巻く世界の確固たる決定論を前に、きみは自分のなかの空虚な感覚を振りほどくことができない。きみは、自分が世界の相互連絡装置や伝動装置の上で漂ったりはずんだりしているように感じる。きみは、過去を持たない不安定な力であり、虚空から生じ、虚空に逆らって存在している。きみのそのむき出しの存在には、どこか拭い去りがたく英雄的なところがある。きみは虚空から偶然生まれでたがゆえに、このヒロイズムに誘惑されている。だからこそ、英雄的行為のことを聞くと必ず、きみのなかで何かが活気づくのだ(pp.167-168)。
これを踏まえて、小田氏は

 「生まれたのはきみではなく誰か別の人物だった」というような根源的な偶然性は、偶然性を運命へと転化すると同時に、自分がその別の人物だったかもしれない、名も知らぬ誰かとの社会的連帯を生み出すのです。これは、ロールズのいう「無知のヴェール」に似ているように見えますが、違っています。ロールズの「無知のヴェール」の仮想は、自分が「何者か(what)」という属性(階級や性別や人種・民族、職業等)を知らなければ、自分がそうであるかもしれない属性による差別や格差を是認することなく、公平さを追求するだろう、だから公平な再分配は合理的だということを示すためのものです(たぶん)。それは、合理的な計算をする主体が代替可能性による役割や比較可能な属性(「何者」)における公平さを自分にとっても有利だと計算して出てくる社会的連帯です。それに対して、根源的な偶然性による社会的連帯は、自分が「誰か(who)」という、代替不可能性からくるものです。
という。さらに、デュルケームの「機械的連帯」/「有機的連帯」という区別を換骨奪胎して、この「根源的な偶然性による社会的連帯」は「互いに代替不可能で、別の誰かと私とは根本的に違うという差異をベースにした類似性」「による機械的連帯」だという。

それを隠喩的関係と呼んでもいいでしょう。隠喩は類似性によって成り立ちますが、隠喩が隠喩であるには、比喩するものと比喩されるものとの間に根本的な差異がなければなりません。根本的な差異を前提としつつ、ただ共に存在するだけで成り立つ類似性によって、機械的連帯は生じるのです。そして、ここで主張したいことは、機械的連帯こそがあらゆる「社会的連帯」の基盤であり、役割連関による有機的連帯だけでは社会的連帯は成り立たないということです。
ところで、アレントにおいても私のかけがえなさを基礎付けるのは「生まれてくること(natality)」である*2。ここでいう「根本的な差異を前提としつつ、ただ共に存在するだけで成り立つ類似性」というのはアレントにおいては「複数性」ということに対応するのだろう。リンギスの言説で興味深いのは、もし子どもを産む(子どもが生まれる)という出来事から偶然性が除去され、アレントの用語で言えば「仕事(work)」として純化されてしまうとすれば、私のかけがなさも自由も全く成立しなくなるということだ。クォリティ・コントロールされた製品が、機械に、さらにはその機械のオーナーに従属するように*3

*1:http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070215#1171548987

*2:ここにおいて、師匠であり恋人でもあったハイデガーとは鋭く対立することになる(Cf. 齋藤純一『自由』、p.119)

*3:産む機械」発言(cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070128/1170005200)において、「機械」のオーナーシップはどのように想定されていたのか。