英語と身体

とにかく全文を引用してしまおう;


【野菊】「マクダァナ」と「マクド

03/11 15:54



 「カキマウス」「マクダァナ」
 何度聞き直しても、そうとしか聞こえない。4歳の長男が発音している言葉がセサミ・ストリートの人気キャラクター「クッキーモンスター」とマクドナルドだと気が付いたのは、かなり時間が経ってからだった。
 当時、長男は近所に住む米国人に英会話を習っていた。素人の指導だから、絵本や積み木などが教材である。いわば遊びなのだが、それでもネイティブな発音が身についた。語学とは耳学問、音楽に近いのではないか。ならば習い始めは幼い時ほどよかろう。それ以来、私はそう信じている。
 この持論に従って今、議論されている小学校での英語必修化問題を考えると、伊吹文明文科相の時期尚早論は単純には支持できない。英語を聞き、話せることだけを目的とするなら、学ぶのは早いほどいい。すでに公立小学校の95・8%、2万1116校で、歌やゲームなどの英語教育が行われているのは、こうした考えからだろう。
 ただ、文科省が本気で「英語が使える日本人育成」を考えるなら、改善すべきは、実は中学校だ。2003年度の教育課程実施状況調査を見れば、それがよくわかる。
 「英語の勉強が好きか」という質問に肯定的な中学生は1年生で60・5%いるが、2年生では51・0%、3年生で48・7%と減っていく。反比例するように「授業がわからない」という中学生は1年生20・5%、2年生26・2%、3年生28・3%と増える。
 「英語の入門期には懇切丁寧な指導が欠かせない。勉強の仕方を教えることはもちろんだが、なぜ学ぶのかという動機付けをきっちりすること。これが十分できていない」と、加賀田哲也大阪商大教授は言う。今月初めには、英検準1級を取得している中学校の英語教師は24・8%と発表された。文科省がおおむねすべての教師に取得を求めているにもかかわらず、だ。
 大学生になってハンバーガー店を「マクド」と呼び、「クッキーモンスター」と発音する長男を見ると、せっかくの資質が中学時代、情熱のない教師につぶされたのではないかと疑ってしまう。親ばかだろうか。(安本寿久)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/42791

所謂「カタカナ英語」*1のことですか。同じ3Kもとい『産経』の方でもhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070301/1172719278で採り上げた方とは全く見解を異にするらしい。それはともかくとして、素晴らしい洞察とトンデモな議論が同居している興味深いテクストだと思った。

当時、長男は近所に住む米国人に英会話を習っていた。素人の指導だから、絵本や積み木などが教材である。いわば遊びなのだが、それでもネイティブな発音が身についた。語学とは耳学問、音楽に近いのではないか。ならば習い始めは幼い時ほどよかろう。それ以来、私はそう信じている。
 この持論に従って今、議論されている小学校での英語必修化問題を考えると、伊吹文明文科相の時期尚早論は単純には支持できない。英語を聞き、話せることだけを目的とするなら、学ぶのは早いほどいい。すでに公立小学校の95・8%、2万1116校で、歌やゲームなどの英語教育が行われているのは、こうした考えからだろう。
ここでいっているのは、それぞれの言語に特有のリズムの問題であろう。統辞論的(文法的)或いは意味論的秩序とともに、或いはそれ以前において、それぞれの言語は特有のリズムを持っている。自明であるそのリズムの存在に気付くのは、外国人の言葉を聴くときだろう。例えば、日本語が堪能な人は、米国人だろうが中国人だろうが韓国人だろうが、沢山いる。しかし、それでも違和感を持つことが圧倒的に多い。それは必ずしも文法とか語彙の問題ではない。日本語の助詞の用法はたしかに難しく、私だって間違えることは(偶には?)ある。また、「腹を割って話す」がわからない日本人などよりも遥かに多くの語彙力を持った外国人も沢山いる。何が問題なのかといえば、リズムなのである。それぞれ、英語とか中国語とか韓国語のリズムでもって、日本語を話してしまうのである。中国では〈抗日戦争〉物のドラマがあるのだが、日本兵を中国人の俳優が演じると、中国語のリズムの日本語になってしまうので、日本人が聴くと、それだけで笑ってしまい、〈抗日〉のメッセージは伝わってこない。勿論、それは向こう側から見ても(聴いても)同じなのであり、日本語のリズムでもって英語や中国語を話せば違和感を感じるということになるのだろう。だから、英語教育において、英語的なリズム、身体感覚を身に着けさせることは重要だといえよう。ここでいうように、言葉はその根柢的な準位において「音楽に近い」ということはたしかだろう。
そういえば、J-POPしか聴かない今の若者は知らないかも知れないけれど、1970年代の日本では、日本語でロックを歌えるかどうかという論争があった。この議論はサザン・オールスターズがデビューした辺りでぷつりと途絶えてしまったように思うのだが、そこで問題になっていたのは、英語を前提として形成されてきたロックのリズムと日本語の持つリズムとの関係だっただろう*2。それでその後のJ-POPの主流になったのは、日本語でも英語でもなく、キャロル(矢沢永吉ジョニー大倉)的な解決法、つまり英語っぽくした日本語という解決法ではなかったか。
話を戻すと、テクストの後半はどうでもいい議論である。「授業がわからない」かどうか、英語を「なぜ学ぶのかという動機付け」云々というのは、全く別の話だからだ。また、http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/936916.htmlを見ると、いちばん突っ込みが沸騰しているのは最後の部分であるらしい。たしかに、まともな東京人なら、自分の息子が「マクド」とかいったら、数発殴るのが当然であろう。大阪みたいな言い方するな!って。また、「大学生になってハンバーガー店を「マクド」と呼び、「クッキーモンスター」と発音する」というのが日本語の会話の中なのかそれとも英語の会話の中なのかわからない。さらに、英語の会話という文脈において、〈カタカナ英語〉を話すようになったということだと、主な責任は日常的な英語的な環境を息子に提供しなかった親にあるのだと思う。それを「情熱のない教師」に転嫁するのはどうよとは思う。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061214/1166064225

*2:今でも、ロックはともかく日本語のジャズはあまり聴きたくないです。