「逸脱」は難しい

最近多分http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20070222#p2がきっかけになっているのだとは思うけれど、障碍者を巡っての議論が喧しい。それに対して、http://childdoc.exblog.jp/5189137では、


すくなくとも私の息子(自閉症ですが)には、やっちゃいけないことを教えることは可能なので、「障害児だから『分からない』」と一括りにされると、彼には傍迷惑な話である。この言説が人口に膾炙すると、「障害児」と呼ばれる子供のなかには息子同様に迷惑する人が多いんだろうなと思う。あんまり「障害児だから」という括りはして欲しくないものだと思った。
と述べられている。たしかに。私は〈障碍者は云々〉という物言いはできない。何故なら、〈障碍〉の多様な在り方についての知識がなく、そんな私が〈障碍者は云々〉というような言い方をすれば、世間に流通している多分に紋切り型であろう言説をコピーしたようなことしか言えないであろうからだ。
さて、

うちの息子に関しては、規範を教えることよりも、いったん身につけた規範からの「適切な逸脱」を教えることの方がよほど難しい。たとえばクルマが一台も走ってこない休日の赤信号も彼はぜったい渡らない。同じことをしてあるときは叱られあるときは放置されるとなるとかえって彼には混乱とストレスの元だろうなとも思う。どういう場面にせよやっちゃいけないことをしたら画一的に叱られる方が彼にとっては理想じゃないかと思う。世界の見通しが立つという点で。
自閉症」の人に限らず、私たちは〈身体化された習慣〉によって日常生活を可能にしているので、その振る舞いは見かけほど出鱈目ではない。というよりも、出鱈目にしようとしても、〈身体化された習慣〉や「いったん身につけた規範」に従ってしまう。「逸脱」は難しいのだ。「適切な逸脱」を習得すること、「規範」からの自由を獲得することはそれ自体が或る種の成長ではあろう。
自閉症」の人(多分そうだったと思う)に絡まれたことは1度だけある。電車に乗るときには勿論空いている席を探して、坐る。坐れないときは、コーナーを探す。壁に寄りかかれるし、両手が自由になるから。本も読みやすいし、眠くなっても、壁に寄りかかっていれば眠れないことはない。或る日、そのようにして電車のドアの横のコーナーに立とうとしたら、10代の少女がやってきて、すごく強い力で私を突き飛ばした。この少女はそれまで何度も電車の中で顔を見たことがあるのだが、いつもドア横のコーナーに立って外を見ていた。私が立っていたところは彼女の定位置だったのだということに気付いた。(壁に寄りかかれれば何処でもよかったので)私は空いていた別のコーナーに移った。通勤電車なので、乗り込む人は毎日決まった人だろう。その人たちは、そこが彼女の定位置であることを了解していたのかも知れない。そういうことを思い出した。これは昔私が「自閉症」に理解があったとか逆に差別していたとかいう話ではなく、ただ(ほかに場所もあったことだし)本気で喧嘩するのが面倒臭かったというだけの話である。ほかに場所がなければ、(私も大人げないので)本気に言い争って、手も出ていたかも知れない。