「理想」と「想定可能性」

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070228/1172682741に対して、張江さんからコメントをいただいた*1。私が「そのような「ネット文化」の理想は支持するし、特にインターネットに関わる企業とか政府関係者はそのような「ネット文化」を規範としつつ振る舞う責任があると思う」云々と書いたことに対して、


はたして、この「理想」は如何なる位相で「支持」が可能なのだろうか、こんな疑念である。
 もちろん、この「理想」に対して私も積極的な異論も反論もない。だが、私は決して支持もしない。なぜならば、この「理想」は決して実現可能な要素を持ちえていないからである。あえていえば、それを「夢想」や「願望」「欲望」といった準位でならば、それなりに捉えうる途もありえるのだが。
 むろん、「現実的ではないからこそ理想なのだ」という反論もありえよう。だが、こうした「理想」を現実態へと着地させるためには、「現状ではそうではない主体を表現する主体へと変形する過程」が不可欠である。そうであれば、そこには新たな問題群が生じるだろう。「いったい誰が、どうやって変形をすすめるのか」、これが語られなければならない。
 この言明に対しては、「変形する主体」ではなく「主体の変形」が指摘されるかもしれない。だが、たとえそうであるにせよ、やはり、この「理想」がそれとして留まり続けられるのは、「そのような技術的な想定が可能だ」という意味でしかないだろう。そうであれば、その程度の「想定可能性」を「理想」と呼ぶべきではないとおもえるのだが如何だろうか。
と。
これに対して、多分回答にはなっていないとは思うのだが。
佛教徒として、私は一切衆生の救済、佛国土の建立という「理想」を「支持」する。しかし、それが普通の意味で「実現可能な要素を持ちえていない」ということも了解している。というよりも、それは人智の及ぶ範囲ではなく、御佛の計らいに属する範囲のことである。しかし、この「理想」が私の日常的な振る舞いにとって全く無意味かというと、そうではないと思う。少なくとも、この「理想」が私に〈善行〉を促し、〈悪行〉を控えさせるという効果はある。言い換えれば、それは個々の振る舞いを評価する際の準拠項として機能しうるのではないだろうか。
これは、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070223/1172242966で要約した、小泉義之氏の(ガブリエル・マルセルを踏まえての)「希望」についての議論と関連してくるのかも知れない。
病いの哲学 (ちくま新書)

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