省察を省察?

かなり以前に私のhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060829/1156827266に対して、t_keiさんからコメントを頂いた*1。勿論、それに今答えることはできないのだけれど、それとの関係で、


 a)告白とは、個人的な出来事をあくまで個人的な物へとどめおこうとする実践である。b)科学的な対象化とは、個人的な出来事を集団的な言説とする実践であるが、そのために、当事者性が犠牲にされる。

 言説に対する、告白による個人化と人間諸科学による集団化とは、互いに対となって装置を構成している。

 これらに対立する実践が「省察」である。

 省察は告白とは異なり、個人的な出来事を個人的なままで終わらせない。特異な経験をいかにすれば、一般的な思考の対象たりうるものへと練り上げることができるのかが問題となっている。

 省察は、また、人間諸科学による対象化とは異なり、当事者による実践である。
http://d.hatena.ne.jp/pqrs/20070108/1168206427

をメモしておく。
省察」の意味としては、言葉を持たぬactualな経験が言葉を恢復していくプロセスということができるか。特に政治的には、compassionから連帯(solidarity)が生起するのを見届けること。倫理的には、ルサンティマンの浄化が伴うのだろう。
省察」は時には「一般的な思考の対象たりうるものへと練り上げる」とは反対の向きに行われなければいけない。「省察」以前の問題として、「一般的な思考の対象」或いは一般項は個別な経験が有意味な経験として構成される条件でもある。換言すれば、「個人的な出来事」というのは一般項に染められた仕方でしか、私に対して現出しない。或いは、私たちは日常的に「不知不覚」「省察」をしてしまっている。或いは、レディメイドの「省察」の借用。だとすれば、「省察」は「一般的な思考の対象たりうるもの」或いは「省察」そのものに向けられるということになる。

さて、「ホームレス怖い」「ホームレスうざい」「ホームレス臭い」etc. etc.という「実感」や、「本音」が、まん延していることは、疑いない。別にもういちいち驚かないというか。日常会話でもそうだし、ネット上では、巨大掲示板やら、本音ワールドミクシィをちょっとのぞいてみれば、いくらでも採集することができる(一例)。ただし、テラソン氏が言うように、この「本音」は、一部ブログとか、テレビのワイドショーあたりだと、「建前」とセットになっていることも多いようだ。

 もちろん、この「本音」意見を述べる人というのは、野宿者の「実態」を知らない、知ろうとしない、モジモジさんの言い方でいえば「物を知らない人」である。
http://d.hatena.ne.jp/zarudora/20070209/1171053492

たしかに、「彼らに「実態」を知らしめてやればいい、教えてやればいいという簡単な問題ではない」。つまり、ここで問題なのは「実」つまりrealを疑うことではない*2。その「実」が「実」として如何に構成されたのかを(遡行的ではあれ)問うことなのだとは思う。

*1:http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20060830/p1

*2:誰がそんなことをできるのか。