「文芸書が売れない」

http://www.ikimono.org/diary/archives/420に曰く、


文芸書が売れないのは、文芸に関心を持つ人が減ったから。
単に数が減っただけでなく、まるで死に絶えつつある伝統芸能のように、その内実や楽しみ方を知る人が減り、生活の一部分という存在からフェードアウトしつつあるから。
この状態から脱却するためには売る方法を考えるのではなく、文芸が実はいかに楽しいものであるか、どうやって楽しんだらよいのか、という普及活動から始めなければならないかもしれない。でも、それだけでは「○○保存会」のようにそれに関わっている人々の間では異様に盛り上がっているけれど関わっていない人々にはちっとも影響を与えていない、という薄ら寒い有様になるので、どうしてもスターが必要でしょうね。本当に書く力があって、そのうえ伝統の一部を破壊したりお約束を破ったりできるくらいどうしても自分がやりたいことを持っている人が本を書かなければ無理。
この方にとって、「文芸書」は既に「専門書」、すなわち「ある特殊で狭いテーマに関心がある人々にだけ売れる本」ということになる。
その一方で、文学の「カラオケ化」*1ということも言われている。大袈裟に言えば、読者よりも作者の方が多いくらい。それだったら、「売れない」のも当たり前。「文芸に関心を持つ人が減ったから」というよりは、そういうのを読むことに関心を持つ人が減ったからということだろうか。
このことを言語という側面から考えてみる。とはいっても、丸谷才一先生などが既に言っていることだ。洋の東西を問わず、前近代において、何かを書くということは先行するテクスト(言葉)を真似ること、或いはそれらにちょっとした変更を追加することだった。真面目であれお巫山戯であれ、典拠のある言葉を書くというのが通例だったわけだ。その端的な例が本歌取りというものだったろう。書き手にせよ読み手にせよ、直接的・間接的に典拠を知らなければ、そもそも書くこともできず、読んだとしても面白くなかったわけだ。近代になると、典拠とかいうよりも、対象をリアルに描けとか自分の心情を素直に表出しろといった要請が強くなった。そのためには、典拠或いは間テクスト性を意識させることは邪魔であり、言葉は対象や心情の背後に引っ込んだ、目立たぬ、できれば透明な存在であるべきだとされた*2。ところで、所謂ポストモダンにおいては、それが再度逆転する。パロディやパスティーシュ或いは引用が再度技法として積極的に肯定される。勿論、パロディが存立するためには、ネタ元(典拠)について知っていることが必要である。
文学の「カラオケ化」というのは、近代的な言語観からすれば、当然の帰結であるともいえる。書くためには読まなければいけないのではなくて、書くため、対象や心情を書くためには、寧ろ読むことは邪魔なのだから。とすれば、一時期騒がれたポストモダンというのは何だったのか。それはそもそも超マイナーな現象にすぎなかったのか。それとも、言語観におけるバックラッシュがあったのだろうか。前者については、なるほどそうだと思う。しかし、言語観の(もしかしてそれにとどまらない)揺り戻しがあったとも思いたくなる。そういえば、1990年代の或る時期に駄洒落が〈オヤジ・ギャグ〉として蔑まれ始めるということがあった。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070120/1169274863

*2:それが不可能であることはいうまでもない。究極的には他者から、或いは社会から譲り受けたものである自分のヴォキャブラリーという典拠を参照しているわけだから。