http://d.hatena.ne.jp/sean97/20070111
わざわざ「アノミー」という言葉を使わなくてもいい気がする。要するに、最近の連中は公徳心が欠けているとか自分勝手だとかいう認識がけっこう広く共有されているのではないかということですよね。世の中無秩序だぜという感覚の共有?
「アノミー」*1といっても、デュルケームが言うのとマートンが言うのは違う。今、デュルケームの『社会分業論』が手許にないのだが*2、デュルケームのいう「アノミー」というのは単なる無秩序でもないし、自分勝手でもない*3。逆説的に言えば、デュルケームの見たところ、「アノミー」というのは資本主義という社会秩序と不可分のものであり、もし或る程度の「アノミー」がなければ資本主義体制の存立が危うくなってしまう。『自殺論』での発見の中には、不況の時と同様に好況の時も自殺が多い、下層階級よりも中上流階級の方が自殺が多いということがある。
デュルケームのいう「アノミー」は「均衡」の喪失に関わっている。イケイケになるということか。個人の欲望は、外部からの制限なしに際限もなく喚起されるが、そのため、欲望を実現できないという不満も際限なく生ずる。これを一般化すると、それ自体としては悪いものではない欲望(或いは価値)がその他の価値を押しのけて強調されるために過剰になってしまう状態といえるか。ネガティヴ・フィードバックを欠いた状態。例えば、金を儲けるということは悪いことではないが、それだけが強調されると拝金主義になってしまう。また、働くということは悪いことではないが、それに対して歯止めがかからないと、〈過労死〉が待っている云々。デュルケームが「アノミー」が常態化しているセクターとして特に挙げているのが経済である。成る程、資本家にせよ労働者にせよ消費者にせよ、常に欲望を煽り続けなければ、経済成長はありえない。
とすると、「アノミー」に対抗しているのは、「愛国心」とかとかというよりも、寧ろ「希望格差」とか「下流化」といわれることなのかも知れない。欲望があるから欲望が成就しない欲求不満があるのであって、そもそも欲望を低く抑えれば欲求不満に苦しむこともない。逆に、市場経済への徹底的なderegulationを主張する新自由主義というのは「アノミー上等」の旗頭か。デュルケーム曰く、
なお、実は「アノミー」は現代社会の一見すると無秩序っぽい側面によって抑止されているという可能性がある。つまり、皆が〈俺が、俺が〉と犇めき合うことによって、結果的には相互の相対化がもたらされるという可能性。ただ、皆が〈俺が、俺が〉と犇めき合うことは結果的に一つのものを煽ってしまう可能性もあり、どちらになるのかは原理的には不確定だと思う。
階級の上下をとわず、欲望が刺激されているが、それは最終的に落ち着くべきところを知らない。欲望の目ざしている目標は、およそ到達しうるすべての目標のはるか彼方にあるので、なにをもってしても、欲望を和らげることはできないであろう。その熱っぽい想像力が可能であろうと予想しているものにくらべれば、現実に存在するものなどは色あせてみえるのだ。こうして、人は現実から離脱するのであるが、さて、その可能なものが現実化されると、こんどはそれからも離脱してしまう。人は、目新しいもの、未知の快楽、未知の感覚をひたすら追い求めるが、それらをひとたび味わえば、快さもたちどころに失せてしまう。(略)(『自殺論』宮島喬訳、中公文庫、p.316)
- 作者: デュルケーム,宮島喬
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ところで、デュルケームには、特に後期の『宗教生活の原初形態』で論じられる祝祭や革命などの非日常的な無秩序でありながら日常的秩序の存立を基礎付ける「社会的沸騰」という概念があるのだが、デュルケームの専門的研究では「アノミー」と「社会的沸騰」の関係というのは如何に論じられているのであろうか。
最後に、
という視点が全く的確であることを確認しておく。
本当にアノミー化しているのか、はけっこう疑わしいとは思いますが、ただ(こういう社会学的なものは完全に素人ながら)アノミーというのは、本当にアノミー化しているかどうかはそんなに問題ではなくて、「みんながアノミー化していると思っている」ことが重要なんだろうと思います。