http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061226/1167151875と関連して、気になっていたテクストがある。「うさこ」さんによる『イングリッシュ・ペイシェント』のレヴュー*1。但し、私はその映画もまだ観ていないし原作小説も読んでいないので、何も言えない。しかし、これ自体が「孤独」と生(死)を巡る読まれるべきテクストだと思うのだ。曰く、
また、これはhttp://blog.goo.ne.jp/midorinet002/e/8a0e26d5cea136bc84d81027c139068eにも関わっているように思える。勿論、「いのちより大切な価値」はないというのは正しいのだろう。しかし、このことを大声でいうことには躊躇わせるものがある。
いますぐとって返さなければ、愛している相手は重傷をおったまま助からない。そんなときに問答無用で拘束されてしまう人生を思うと、息が詰まりそうなくらい怖い。菊花の契りより怖い。戻ると約束したのに。あなたを助けにくるといったのに。ひとりで死なせるなんて。なによりも、見捨てられたと思いながら死なせるなんて。ほんとうの意味で「ひとりで死ぬ」とはそういうことなのだから。それはきっと、けものたちにはひんぱんに起きていることだろう。どんぐりが不作の秋、衰弱した子供に柿をとろうと里へ出てとらえられた母熊、家族の餌場を探して撃たれた雄鹿。自分は深手をおい、のこしてきた家族はもう死んだ。それなら自分も死なせてほしいと願うだろう。イギリス人の患者はそう願った。死なせてほしいと頼まれて、涙を膨大に流しながら致死量のモルヒネを注射器に吸い上げる看護婦は、会えないまま自分の父親をうしなった娘である。彼女は親の最期をみとりたかった。ひとりで死なせたくなかった。患者と看護婦は合わせ鏡の関係にある。
でも、どうぶつと人をいっしょにしないでって?
毎日新聞の「ねこ新聞」という随筆欄に、ある家の庭先で仔猫をうんだ母猫の話がのったことがある。赤ん坊猫たちをのこして母猫が戻らない。薄情だと思っていたら、数日後に縄をまつわらせて帰ってきた。食べものを探しに出たところを、ご親切で愚昧な人間に「保護」されてしまい、縄をかみちぎって必死で逃げてきたらしい。しかも避妊手術までされていたという。産後の弱った体にはひどくこたえたろう。生殖器を切り取られたのではお乳も出なくなったかもしれない。
それぞれの生には、絶体絶命に譲れない事情がある。最低限の継続観察すらせず、めりめりと木を裂くように拉致監禁しておきながら「弱っていたので保護してあげたの」といいつのられて生きるより、わたしなら相手をかみ殺して死ぬほうをえらびたい。でも死にきれなかったときは、どうかたっぷりのモルヒネを(弱気)。そしてわたしの家族に知らせてください、いつまでも知らずに待つことがないように。そしてあなたが死ぬときに、わたしはそこにいますと。