なんばさん曰く、
なんばさんの思考から真っ先に思い浮かぶのはハイデガー。
「非モテ」とか言ってる人は大抵、自分の属性だとか相手の思想だとかがモテない原因だと思いたがるものだが、それは他でもない自分の存在そのものが否定されている可能性から必死で目をそらすためにそうしているのではないか。例えば、あの子が自分を好きになってくれないのは自分がオタクだからだ、と思っていても、その子がつきあい始めた男が自分と同じくらいオタクだったりすると、その可能性に直面することになる。自分と彼と何が違うのか? 属性にさして違いはないのではないか? 違いは自分が自分であるということだけなのではないか? つまり、自分が自分であるがゆえに愛されないのだとしたら。。。
http://d.hatena.ne.jp/rna/20061019/p1
ここでいう「属性」と「存在そのもの」というのは、私がよく使う言葉に置き換えると、
本質存在/現実存在
或いは
what/who
ということになるか。
「オタク」には、左翼、右翼、貧乏等々、「属性」を指示する言葉が幾らでも代入可能。
最後の「自分が自分であるがゆえに愛されない」という言い方について。そのように思い込むことはあるかもしれない。しかし、理論的には愛は説明項であっても被説明項ではないだろう。というか、愛が「自分が自分である」ことを含めて他の何ものかによって説明されてしまった途端、愛以外の何かになってしまうのではないか。但し、恋愛に限らず、挫折一般において、「存在そのもの」に曝される可能性(リスク?)が高まることは当然言えるだろう。何しろ、その時「存在そのもの」は諸々の「属性」によって護られてはいないのだから。
ところで、「非モテ」はそもそも「存在そのもの」なんて求めていないのかも知れない。それよりも「存在そのもの」に曝される可能性(リスク?)が高いのは、「モテ」と呼ばれる人たちだろう。性欲その他の欲望のそこそこの充足があってはじめて、〈セフレ〉その他の存在と〈恋人〉との差異に愕然とするということが可能だろうからだ。
「属性」と「存在そのもの」、whatとwhoを取り違えてしまって、「属性」やwhatに縛られるというのは、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061027#p1で言及されている自称「弱者」の場合もそうなのだろうと思う。