形式の問題

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/wadai/archive/news/2006/10/20061023ddm003070051000c.html


中川昭一、教育改革を語る。これについての真面目な論説はhttp://d.hatena.ne.jp/annntonio/20061023/1161578384とかhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061023/1161556867とかを参照されたい。


例えば、教員免許の更新制度が検討されている。日本教職員組合の一部活動家は、自分が納得できないことは何をしてもいい、断固拒否する、では教師の資格はない。集会の自由は憲法上の権利だが、デモで騒音をまき散らす教員に児童・生徒の尊敬を受ける資格はない。免許はく奪だろう。
これは内容というよりは形式を問題にしているわけだ。これは馬鹿なことをいっているように見えて、権力の作動の仕方ということではトレンドをおさえているといえる。そういえば、村山敏勝さんが

うちの職場でも、数年前に立て看が一切禁止された。学生部委員会の教員は相当抵抗した末に学園当局に押し切られたのだが、要するに規制されるのは表現の内容そのものではなくて、表現の形式なのだ。内容そのものを規制することはできないから形式を規制し、学外者がビラを撒いていれば「私有地への侵入」として逮捕するというこのやりかたはあまりにもせこい。それに対して愚直な正面の抵抗が必要だ、とビラを撒く側は言うだろうけれど、それも軽快さに欠ける態度だと思う。
http://d.hatena.ne.jp/toshim/20060629
と6月に書いている。因みに「うちの職場」というのは日本国首相の母校である。
これは自明なことかもしれないが、藝術などの表現においては、形式というのは内容などより遙かに重要なものだ。とすれば、〈表現の自由〉という場合、〈形式の自由〉或いはスタイルの自由というのは〈内容の自由〉以上に重要となってくる。この〈形式の自由〉は、審美的な準位では、クールであることの自由とださくあることの自由をともに含むものだ。さらに、http://d.hatena.ne.jp/nisemono_san/20061016/p1とかも絡めて展開することも可能かと思うが、今はちょっと時間がない。