8mm

『朝日』の記事なり;


8ミリフィルム生産終了へ 映画監督ら「待った!」
2006年10月20日

 「私にも写せます」のCMで人気を集めた富士フイルムの8ミリムービー「シングル8」のフィルムが来年3月で販売を終了し、現像も08年9月で停止する。ビデオ時代で需要が低迷し、設備を維持できなくなったためだという。アマチュアからプロまで幅広い層に親しまれたメディアだけに、映画関係者らから存続を求める声が上がっている。


 シングル8は65年に発売。フィルム交換が簡単なマガジン方式や、手軽な操作性が初心者にも受け、コダック社のスーパー8とともに家庭用8ミリカメラのブームを生んだ。

 だが、ビデオの登場で市場は急激に縮小。カメラや映写機は80年代初頭に生産停止し、現在は中古品しか手に入らない。フィルムの販売数も73年の1260万本をピークに、昨年は約1万本まで落ち込んでいる。

 「他社と互換性がないフィルムでもあり赤字覚悟で供給体制を維持してきたが、生産・現像機器の老朽化が限界にきた。現在の需要では設備投資も困難。技術者も限られ、安定した品質を保証できない」と富士フイルムは撤退の理由を説明する。

 これに待ったをかけようと、大林宣彦大森一樹監督らが発起人となって「フィルム文化を存続させる会」を6月に結成した。生産を維持する方策を話し合い、上映イベントなどで一般の理解を求めていくという。映画、テレビ、CMなどのクリエーターや映像作家、研究者ら約300人が賛同人に名を連ねる。

 「デジタル時代のフィルム文化の危機を象徴する出来事。企業と対立するのではなく、ユーザーとメーカーの連携で、多様な表現手段を守る道を探りたい」と、事務局の水由章さん。富士側も可能な限り協議に応じる方針だ。

 ユーザーの大半がビデオに移行したいまも、8ミリフィルム特有の映像に愛着を持つ人は多い。特にシングル8は、コマ撮りや多重露光など多様な撮影方法が可能なことから、自主映画や教育現場で根強い人気を保つ。「欧米では映画学校の16ミリで出発する監督が多いが、日本では家庭用のシングル8が映像製作のすそ野を広げ、多彩な才能を育んだ」と映画評論家の大久保賢一さんは話す。

 山田勇男山崎幹夫ら、いまもシングル8で新作を撮り続ける映像作家もいる。「20世紀ノスタルジア」で知られる原将人監督もシングル8で長編を撮影中。「パソコンで編集すれば8ミリを劇場用の35ミリに転換するのも簡単。ビデオと8ミリの融合といった表現もできる。ビデオかフィルムかの二者択一ではなく、多様な選択肢を残すことが豊かな文化を生むのではないか」と語る。

 「存続させる会」の第2回集会が11月24日、東京・水道橋のアテネ・フランセ文化センターで開かれる。手塚眞監督や撮影監督の芦澤明子さんらによるシンポジウムと8ミリ映画の上映を予定。詳細は公式ブログ(http://filmmover.exblog.jp)*1で。

●若者向け上映会は盛況

 8ミリフィルムは、ビデオ世代には逆に新鮮なのか、各地で開かれる若者向けの上映会は盛況だ。

 「ぴあフィルムフェスティバル」はこの夏、歴代入選作を集めた大型回顧特集を都内で開催。石井聰亙松岡錠司塩田明彦犬童一心矢口史靖ら人気監督の原点となった8ミリ作品を上映した。黒沢清監督の8ミリ作品特集も若いファンが会場を埋めた。

 多摩市の「TAMA CINEMA FORUM」では11月25日、井口奈己監督の「犬猫」、長崎俊一監督の「闇打つ心臓」など商業公開作品の原形となった8ミリ映画や新作を上映する。

 家庭に眠る8ミリ映画を見直す活動も。市民グループ「映画保存協会」は8月の第2土曜日に世界各地で開催される「ホームムービーの日」を3年前に日本に紹介。今年は東京、名古屋、弘前、長野、京都、大阪の6都市で上映会を開いた。公式サイト(http://www.filmpres.org)*2では家庭でのフィルム保存法などの情報も提供している。
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200610200237.html

それでもまだ年間1万本生産されていたというのも小さな驚き。
8mm映画ということで言及すべきはヴィム・ヴェンダースの『パリス、テクサス』*3
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だろうか。放浪生活から戻ったトラヴィスが弟の家で観た8mmフィルム、所謂ホーム・ムーヴィである。これはトラヴィスの息子を連れての〈母親探し〉を動機付けるものでもある。映し出されているのは在りし日の家族のヴァカンス。映像というのは常に現在形である。映像はそれ自身によって〈ある〉と〈あった〉の区別をすることができない。私たちは、(映像の外から)これは過去の映像だと指示されているから、そう思い込んでいるにすぎない。ヴェンダースは8mmフィルムの引用という仕方で、映像における時制の問題を解決したともいえる。映画的現在とは異質な、ざらざらでちょっとピンぼけで傷の入った画面。年老いた映像。そこに映っているのがトラヴィスにとっても誰にとっても、既に取り返しのつかない過去であることを、ストレートにメディアそれ自身が証言している。8mmフィルムが家庭というか長期的な親密性と結び付いているのは偶然ではあるまい。撮る人も観る人もまた撮られ・映し出される映像も少しずつ老いてゆく。そのgetting older togetherという出来事自体を、すなわち時間を共有する集まり。過去を過去として恢復しようとしても、既に映写機もないというのでは洒落にならないけれど。
さて、実は私は映画作品が1つだけある。数十年間誰にも話したことはなかったが。高校の学園祭でクラス企画としてクラス有志が共同で8mm作品をでっち上げたのだった。そのフィルムは今誰が所持しているのか、或いはこの世にまだ存在しているのかどうかは知らない。

*1:http://filmmover.exblog.jp/

*2:http://www.filmpres.org/

*3:パリ、テキサス』というタイトルがよろしくないということは、故淀川長治先生が指摘していた。そもそものis/asという韻が破壊されてしまうのだ。