http://d.hatena.ne.jp/rajendra/20061019/p1で、「代理母出産」について分類が試みられている;
ここで問題になっているのは、当事者にとっての主観的或いは法律的な家族関係の混乱である。それは勿論重要な問題だ。また、http://d.hatena.ne.jp/Mr_Rancelot/20061012/p2で述べられているように、生まれてきた子どもの「福祉」が先ず優先的に考慮されるべきだというのも頷ける。
A.依頼者夫婦の受精卵を使う場合
A1:いわゆる借り腹。夫婦の受精卵を代理母に出産してもらう方法。依頼者夫婦が遺伝子的にも両親となる。向井亜紀さんのケース。
B1:卵子ドナーが代理母となって出産する方法。子供から見ると母親が2人。
B2:卵子養子型代理母出産。卵子ドナー以外の第三者が代理母になる方法。子供から見ると、依頼者である母、遺伝子上の母、出産の母の3人の母親ができる。
C1:精子養子型代理母出産。依頼者夫婦以外に、精子ドナーの父および出産した代理母とのつながりが存在する。
D1:受精卵養子型代理母出産。卵子ドナーが代理母となって出産。依頼者夫婦と子供との間に遺伝子的つながりは無い。
D2:受精卵養子型第三者代理母出産。卵子ドナー以外の第三者が代理母になる。夫婦と子供との間に遺伝子的つながりは無い。子供から見ると、父親が2人、母親が3人。
ところで、「代理母出産」或いは生殖技術一般について考えるとき、別のことを連想してしまう。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061015/1160931891でもちょっと触れた「売春」云々ということもそうなのだけれど、特に「代理母出産」ということだと、ブルジョワジー/プロレタリアートということである。プロレアタリアートは実際に生産に携わるものの、生産手段は所有せず、生産物或いは生産によって生じた付加価値は生産手段を所有するブルジョワジーの所有に帰する。このことは誰でも認めることだろう*1。しかしながら、実際の経済においては、この図式はそれ程クリアに観察することはできない。一方で所有が法人や組織によって抽象化・匿名化し、他方で株式制度によって所有は拡散しているからだ。特に「代理母出産」の上でいうところのAの場合、このブルジョワジー/プロレタリアートという図式をよりクリアに見て取ることができるのではないだろうか。
長野県で行われた遺伝学的母親の母親(子どもにとっては祖母)による「代理母出産」*2を初めとして、実際には遺伝学的母親の姉妹など、身内が多い。それは最もプライヴェートな領域に関わるということもあるけれど、このブルジョワジー/プロレタリアートという非情な図式を何とかして家族内分業という仕方で収めようということもあるのではないか。これが身内から外に出る場合、実際の経済におけるブルジョワジー/プロレタリアート関係と同様な問題を抱え込むことは想像に難くない。
ところで、「代理母出産」による家族関係の混乱について思うのだが、近代社会においては家族関係、特に親子関係の排他化が進められたといっていいだろう。カトリック文化圏では今でも代父(godfather)との関係が重視されているし、日本でも烏帽子親とか漿つけ親という慣行があった。また、家を継がせるためではなく、政治的贈与としての(人質としての意味も持った)養子*3も少なくなかった。家族機能のアウトソーシングが進む中で、親子関係は純化してきたともいえるのである。それを象徴しているのが乳母という慣行の衰退であろう。社会の上層部の子どもは他人の乳で育つのが当たり前であったが、今度は母親自身の乳が強調される。乳母が衰退すれば、同時に乳兄弟も衰退する。だとすれば、「代理母出産」というのは、モダニティを特徴付けるブルジョワジー/プロレタリアートの家族の領域への侵入であると同時に、勝義においてポストモダンといえるのかも知れない。
*1:このことによって、生産手段を所有できない者でも生産に参入できるということはいえる。
*2:http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20061015ik09.htm
*3:この場合、猶子の方が適当か。