「急進主義」の隔世遺伝

 山口二郎「日本における保守政治の隘路」http://yamaguchijiro.com/?eid=545


前半は「精神主義」批判。その中で、


犯罪件数自体が最近増加しているというのは事実ではない。ただ、高齢者の犯罪は明らかに増加している。そして、その背後にあるのは介護を支援する仕組みが不十分であるという現実である。だとすれば、犯罪を減らすために介護の仕組みを強化することが有効な対策となる。
という指摘はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060928/1159463987との関係でメモしておく。
また、

そして、戦後日本では保守政治こそ、具体的な問題解決に向き合ってきた伝統を持っていた。1960年のいわゆる安保騒動の後に、岸信介から池田勇人に首相が交代したことは、自民党政治の大きな転換点であった。その池田政治を支えたのは、前尾繁三郎大平正芳などの保守政治家であった。前尾は、保守主義の特性を、過去との連続性を保ち、できるだけ徐々に、できるだけ不安と混乱を少なくして変化すると規定した。また、大平は、「昔はよい時代であったが、今はそうでないと断定するのは誤りである。いつの時も今日と比べてひどくよかったという時代はなかった」、「いかなる手段にも必ずプラスとマイナスが伴う。絶対的にプラスである手段などというのはない。現在よりプラスの多い、よりマイナスの少ない手段を工夫することが大切である」と述べ、保守政治が持つべき現実感覚の重要性を説いた(二人の発言は、富森叡児『戦後保守党史』、岩波現代文庫による)。

 前尾や大平は当時上り坂だった社会主義勢力への対抗のために、保守政治の理念を彫琢した。しかし、今読むと安倍政治への警告として的を衝いているように思える。そして、その点は、安倍が手本とする岸政治が実は日本の保守政治の中で異質な存在だったことと関連する。岸は、戦前、戦中、統制動員体制のデザイナーであり、満州では実際に国家経営の実験を行った。計画と統制で社会を改造するというのは革新の発想であり、戦後の早い段階ではまじめに社会党右派との提携を考えていた。岸にとって国家改造の目的は、日本がアジアにおける盟主になることであった。敗戦で挫折した後も、岸の発想は持続し、政権獲得後は積年の野望を実現しようとした。しかし、岸は保守主義を踏み外して性急に変革を起こそうとしたがゆえに、国民に拒絶された。すでに定着していた平和と民主主義を覆されることへの不安こそ、岸に反発した世論の根底に存在した。岸政治が国民によって拒絶されたからこそ、その後の日本の繁栄と自民党の長期政権が可能になったことを、安倍氏は直視すべきである。

そして、「安倍氏と岸には、ある種の急進主義が共通しているように思える」――「昔は左翼小児病という左派の心情主義、冒険主義を揶揄する言葉があったが、左派が凋落した今、冒険主義は右派の売り物になった感がある」と。つまり「急進主義」の隔世遺伝。
そういえば、田島正樹氏は

安倍氏の無能さは、唯一の彼の取り柄でせう。それが救ひだと思ひます。彼が彼の祖父ほども有能だったら、恐ろしいことになってゐたでせう。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50594058.html
と述べている。
また、山口氏のテクストで「資本主義の文化的矛盾」というダニエル・ベルに由来するであろう言葉を久々に目にした。しかし、原理的な準位において「文化的矛盾」の解消は不可能であろう。