既に起こっていること


百年後の人が、どういう風に音楽と接しているのかも、想像がつかない。ことによると、一曲が十五秒くらいになっているかも知れない。その十五秒でぜんぶきめる、みたいなスタイルの曲が主流になるのだ。だってなんか、未来の人って忙しそうだし、木星にいったりとか、チューブからごはん食べたりとかして、のんびり音楽を聴いたりするひまもないとおもうから。エレキギター弾いてる人なんか、いないかもなあ。百年後の人はきっと、ギターの弦などおさえられないくらいに、指が退化しているためである。
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20061005#p1
「その十五秒でぜんぶきめる」ということなら、既に起こっていると思った。例えば、CMとのタイアップ曲の当たり前化。(敢えてこういう言い方をするが)〈コマソン〉の場合、「その十五秒」が勝負である。さらに、ケータイの着メロのチャートで上位を狙うには「十五秒」どころか僅か数秒で全部きめなければならないだろう。
また、「ポップ・ミュージックは同時代性がきわめて重要で、その音楽が鳴っている瞬間の空気を吸う、というところにおもしろさがあるわけで、百年後に、そうした特性をもつ音楽が残っているとは、あまりおもえない」と。根拠なく、時代があってそれとの「同時代性」において音楽が生まれるのではなく、逆に音楽が時代を生成する、或いは音楽が鳴りその空気振動が身体に達するという事態が否応なく共有されることにおいて「同時代性」が構成されるのだといってしまおう。また、一度出来事として鳴り響いた音楽はパロールではなくエクリチュールであり、そもそも半ば死んでいるのだともいえる。だからこそ、それは無限の再生(revival/replay)に開かれている。
ところで、「百年後に」ついて危惧するとすれば、音楽のさらなる本質主義化。これも既に起こっていることだし、上に書いた「CMとのタイアップ曲の当たり前化」とも関係がある。実在する音楽を爪弾き出すミュージシャンよりもプランナーだとかプロデューサーだとかディレクターだとかがえらいということになれば、音楽が生まれることにおいて、音楽ではなくコンセプトが先行することになる*1。具体的に言えば、音楽が結果としてジャズ風になったり演歌風になったり中国風になったり和風になったりするのではなく、先ずジャズとか演歌とか中華とか和とかいったコンセプトがあって、そのコンセプトに合わせて音楽が作られるということである。ペダンティズムをお許しいただければ、そこにはconstructionはあるけれどもconstitutionはないということ。この場合、極言すれば、「半ば死んで」再生を待つ諸々の音楽はサンプリングのためのたんなるネタに貶められることになる。

*1:そういえば、conceptionには妊娠という意味がある。セックスに先行する妊娠??