所謂環境管理型権力と倫理の消滅


ずいぶん前になるが、「運転免許証をIDとして使用し、たばこを買う自動販売機」を試験的に導入した地域があるというニュースをきいたことがある。その自動販売機では、運転免許証を使わないと、たばこが買えないのだ。未成年の喫煙を防止するためだという。なんか、いやだなあとおもった。わたしは喫煙をしないため、基本的には関係のないことなのだが、それでも、これが全国的にひろがるのはいやだとおもった。

この問題がやっかいなのは、では、この自動販売機を導入することで、なにが失われるのか、とかんがえると、それはたとえば、「未成年が、こっそりたばこを買う権利」ではないかということになりかねない点だ。そんなばかな権利はない、といわれれば、反論のしようがない。今、改札を携帯で通過できるシステムもひろがっている。駅の利用が個人認証化されているわけだが、もしわたしが、そうした流れに対して、「こうなんでも機械で管理されると、キセルをする自由が失われます」などと訴えたところで、「忙しいので、かえってくれませんか」といわれるのがオチだ。会社のPCから送信されたメールの内容をチェックする機能がある、といったことも同様で、「仕事以外の目的のメールを送らなければいい」といわれてしまうと、もはや反論の方法がない。

このような状況では、もはや個人の内面が問われていないということは、ひとつ確かである。本人が、未成年の喫煙やキセルにたいして、どうおもっていようと、あまり意味がない。物理的にできないのだから。あたらしい技術によってなされる制限は、わたしたちの内面に関心をもたない。かつて駅には、「目的地までのきっぷを持っていないと、えらい目にあいますよ」という主旨の貼り紙がしてあったが、今そういったものは見られなくなった。改札が機械化されれば、できないからだ。「キセルはわるいことだ」という訓示をたれる必要がなくなったわけである。もし、この先、たばこの購入が個人認証された場合、そして、吸っているたばこの一本一本が、誰のIDで購入されたものかが追跡できるようになった場合(それはじゅうぶんありうることだ)、未成年の喫煙は物理的にむずかしくなる。
http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20060916#p1

環境管理型権力という奴。「あたらしい技術によってなされる制限は、わたしたちの内面に関心をもたない」というけれど、このような仕方で条件付けが反復されることによって、主観的には或る選択肢が消滅する。それは例えば〈デモをする〉という選択肢かも知れない。それはともかく、zoot32さんは、「ここで変化したのは、「やろうとおもえばできるけど、やらない」という選択肢がなくなったということである。そもそもはじめからできないのだから」といい、「その根拠がうまく見つからない」けれど、「違和感」を表明する。多分、それは〈倫理〉の消滅ということへの「違和感」なのだと思う。〈悪いこと〉をする可能性のないところでは〈正しいこと〉をする可能性もない。あるのはたんなる機械的な反応だけである。決定不能性の試練どころか決定もない*1。そこでは、カント先生もデリダ先生も退場するしかあるまい。勿論、親鸞聖人も。

*1:デリダ的にいえば、決定不能でない決定は決定に値しないということになろうが。