Football before Soccer

どういう経緯があったのかは自分でも忘れたが、数週間前に


 斎藤宇一「フットボールの歴史とイギリス社会―サッカーとラグビーの分裂をめぐる階級間対立―」http://www2.ocn.ne.jp/~bukai-hi/ke-hutoboru2.html


をダウンロードしていた。その最後は、


ラグビーがプロとアマに分裂した1895年,ラグビー校に石碑がつくられた。それは1823年にウェッブ=エリス少年が,フットボールの試合中ボールを手で運びラグビーが生まれたという「神話」を記したもので,ラグビーで労働者に勝てなくなったアマチュアのあせりが「労働者からラグビーを取り戻そう」として「神話」を刻ませたのであった。
と結ばれている。
テクストの中心は、所謂「フットボール」の「サッカー」と「ラグビー」への分岐の背後に、


イートン校/ラグビー
 貴族/産業資本家


という対立があったというもの。
それ以前の「民俗フットボール」についての纏めが興味深かったので、丸ごと引用しておく;


①民俗フットボールの特徴
 サッカーやラグビーの成立前,イギリス各地で行われたフットボールを民俗(あるいは,民衆,マス)フットボールと称するが,その特徴をいくつかあげてみる。
 a 一個のボールを二チームに分かれてゴールに運び込むというゲームだが,ルールや形態は地域によって大きく異なっている。 b 民衆が主に参加したが,プレイの場所・時間・人数は一定せ  ず,郊外を含む街全域で数千人が参加することもあった。
 c 足だけでなく,手を使って運ばれる。
 d 肉体的暴力が大幅に容認され,球技というより格闘技であり,大勢の負傷者や時には死者まで出た。
 e 多人数が参加する場合は,安息日や農閑期,特定の宗教祭日に行われ,地域共同体の祭の一つでもあった。
 以上のことから民俗フットボールは,地域共同体の同胞意識の上に成り立つ,民衆の身体文化であったといえる。
 ②繰り返される禁止令
 このような民衆のフットボールに対して,国王・市長・治安判事などの為政者は度々禁止令を出している(1314〜1847年に計42回)。禁止令の出された理由は,
 a 治安の維持―フットボールによる死者は裁判所を悩ませたが,むしろ民衆の暴徒化を恐れた。
 b 財産の保護―街路での大規模なフットボールは,商店や家屋・財産に大きな損害を与えた。
 c 国防―14〜15世紀,フットボールが弓術訓練の妨げになるとされた。
 d 宗教―教会は安息日フットボールを悪徳とみなした。
 などであるが,特に民衆の暴徒化は為政者にとって大きな脅威で,実際に囲い込み反対や食料要求といった目的のフットボールもあり,単なるゲームにとどまらず,政治行動・暴動に発展する危険性を持っていたのである。しかし逮捕や罰金刑も民衆のフットボールをやめさせることはできなかった。民衆がボールを蹴り続け,禁止令の効果があまりなかった事は,それが繰り返し出されていることからもわかる。
 ③衰退の要因
 民俗フットボールは19世紀に急速に衰退してしまうが,その要因は次のように考えられる。
 まず,「第二次エンクロージャー」の影響である。囲い込みはフットボールをする空間を奪っただけでなく,農村共同体を解体し,祭りや同胞意識を失わせた。また家父長的領主が資本主義的地主に変質し,それまで保護を与えていた農民と対立関係になり,保護者として祭りやフットボールに示していた支持や同情を撤回した。
 次に,「産業革命」の影響である。工業化により労働者の労働時間が増大し,休日も激減したため(1833年の工場法では安息日以外2日のみ),民衆はフットボールをする時間を失った。さらに都市化の進行は疎外感をもたらし,共同体の同胞意識は失われた。
 このようにエンクロージャーや産業革命の進行によって,民俗フットボールを支えていた共同体の同胞意識や保護者・時間・空間は失われた。さらに,それまでの為政者や教会からの抑圧が加えられ,民俗フットボールは一部を除いて19世紀には絶滅した(イングランド中部のアッシュボーンでは現在でも懺悔火曜日のフットボールが続けられている)。